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【エッセイ】残雪

思い出したことがある。
祖父母の家にあった大きな本棚には、1冊の辞書が収められていた。それを使っていいかと僕は尋ねたが、祖母は頷いてくれなかった。
母はそんな祖母をケチだと言った。
それで、僕たちは少しだけ笑った。

特別な記憶ではないはずだった。
カメラロールに残された、雪やブランコ、木々や家々の写真を眺めながら、なぜそんな記憶が蘇ってきたのかはわからない。ただ、今考えてみると、その辞書が開かれることで、失われるものがあると、祖母は知っていたのではないか。

私がふれるものは、壊れていく。

『カフカ断片集 海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ』
新潮社 令和6年6月 39頁

僕はどうしてこの写真を残そうと思ったのだろう。そこに立っている僕を想像する。
それらを眼前にして、何を考えていたのか。
そうすると、いつも鳩がいる公園だったが、その日は鳩がいなかったことや、外で遊んでいる子どもの声が聞こえなかったこと、ただ雪の白さに魅了されて、それがふかふかのお布団みたいだと思っていたことを思い出した。

ただ、やはりこの写真を残そうと思ったのは、僕にとってなんとなく過ぎていく営みの一部でしかないのだった。なぜか残ってしまったものと、他でもない僕が残すことを選んだもの。それぞれの過程は決定的に違っているだろうに、同じ結果として僕の周囲に浮かんでいることが不思議だ。

僕はその冬を生きていた。
僕の身体は、心は、たしかにそこにいた。そしてもういない。そこにあったこと、存在していたものは、僕に何を伝えてくれるのか。

今の僕は桜のピークを過ぎた季節を生きている。
それはどういうことだろう。
そんな風に、いつも何かを、どこかを、誰かをつかみ損ねてしまって、決してあの頃と同じようには生きられない。同じ状態を維持できない。ちがう人になっていくみたいだ。
僕のかけらを残す。
その行為は、僕を割って、ちがう人にする行為でもあるのかもしれないと思う。
がりがり、がりがりと僕は僕を削る。
誰のためでもなく、僕のために。

つまり人がその人であることをやめる過程なのだ。
[中略]
古い写真、昔からの友人、色褪せた手紙、そういったものがあなたはもうかつてあなただった人間ではない、ということを思い出させることがある。あの人たちと暮らしていた人、これを気にいっていた人、それを選んだ人、あんなことを書いた人、その人はもう存在していないのだと。人は自分で気がつかないうちに広大な隔たりを旅しているのだ。新奇なものが見慣れたものになり、見慣れたものは、珍しさはなくともどこか馴染みがなく、小さくなってしまった服のような居心地の悪いものになる。

レベッカ・ソルニット『迷うことについて』東辻 賢治郎 訳

僕は、もうかつて僕だった人間ではない。
1冊の辞書を思い出す。
一連の言葉を思い出す。
そして、残された写真を眺めている。

思い出したことを、思い出したままに感じようとする。残されたものを、残されたままに受け止めようとする。
そうすればするほど見えてくるのは自分の他者性だったりする。残していったものたちには、僕が僕であることをやめた過程が写し取られている。
今はもうない自分の感受性や身体、景色や体験。たしかにそこに残っているのに、どれほど手を伸ばそうと決して届きやしない。

さよならだけが人生らしい。
けれど僕たちはいつも、自分自身にさよならを言い忘れている。

この写真を撮った僕は、今の僕のことを何も知らない。悩みも考えも、この文章を書いていることも、聴いている音楽も知らない。一方で今の僕は、この写真を撮った彼のことを多少なりとも覚えている。
それでも、過去の僕(それはどうやらはぐれてしまったらしい)に、触れることはできない。写真もそう。言葉もそう。あなたもそう。
僕たちはいつも、その隔たりを愛するしかない。

フィルムに残された雪の、サクリとしたそのひと欠片に触れられるだけでいいのに。自分の残したものをどれだけ辿っても、僕は僕に出会うことができないでいる。残されたものは道標にはならず、むしろ僕を迷わせてくる。

触れることができないのならば、それを残す意味はなんだろう。僕たちに残されている時間(身体)のすべてで、心を表せないのなら、今存在しているものが、存在している意味はなんだろう。
僕は、僕(であったもの)に問いかける。残されたものに対して僕らができるのは問うことだけだ。それらには、ただぽつんと、問う余地だけが残されている。

なぜか僕はまた辞書を思い出す。
祖母の家にあった何年も開かれていなかったであろう辞書を思い出す。
僕は言葉を思い出す。

僕たちは本当の意味で言葉を持たないのではないかと考える。手中にある言葉や感情や情景は、その手の皺からひとつずつ、1滴ずつ、1秒毎に零れていく。だから辞書を欲しがったのだろうか。たしかに、辞書は言葉のダムのようなものだ。そこにはたっぷりと、充分なほど言葉が貯めてある。

何十年も開かれていないあの辞書の中には、どんな言葉が残されていたのだろう。なぜ祖母はそれに触れることを許してくれなかったのだろう、と不思議に思う。

ブラウスをふたたび手にとったとき、わたしはその記憶を失った。その二つは共存できないのだ。その消失はわたしの眼前で一瞬のうちに起こった。奇跡的に保存されていた壁画や遺体の話を聞くことがある。埋められ、塗り込められて、何百年か何千年の間、光を浴びることなく守られていたというものだ。新鮮な外気と光に曝されるとただちに劣化を始め、崩れて消えてしまう。獲得することと失うことは、時としてわたしたちが考えるよりも親密な関係をもっている。そして、動かすことのできないものや所有を許さないものがある。大気を突き通すことができずに散り乱れてしまう光もある。

レベッカ・ソルニット『迷うことについて』東辻 賢治郎 訳

「獲得することと失うことは、時としてわたしたちが考えるよりも親密な関係をもっている。そして、動かすことのできないものや所有を許さないものがある」

写真の雪に触れることも、辞書を開くことも、できないままでいい、と思いかけて、「それは、本当にそうだろうか」と踏みとどまる。もし触れられたなら、触れられてしまったのなら、雪は何を失ったのだろう。辞書は何を失ったのだろう。祖母は何を失ったのだろう。僕は何を失ったのだろう。

例えば雪に残された足跡は、雪にとっての喪失を意味するのだろうか。辞書の埃がはらわれたとき、祖母は何かを思い出してしまうのだろうか。その中の言葉に触れていたなら、今の僕は存在していなかったのかもしれない。

やはりただ問いだけが漂って消えない。それでも、いやだからこそ、僕たちは問うことを諦めてはならない。
正しく答えるのではなく、ちゃんと問いかけることで正解できる問題がこの世にはたしかにある。

残された雪に問う。
開かれなかった辞書に問う。
僕は、それらの、はぐれた僕たちに問う。
僕は迷う。
そうして迷いながら、僕が今日に残されていく。
ちがう人間になっていく僕の足跡が、またひとつ雪に残されていく。


2026-04-18「残雪」

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