ソル・ルウィット オープン・ストラクチャー(東京都現代美術館) 全体、四、必然性、恣意性、
コンセプトとしての、理念的な四。直線四つで閉じられる領域がまずあって。そこから内側に、必然的に導かれる線や形の、様々な仕方。理念的な全体としての四角形が外枠としてあり、その内部に考えうる全てのパターンが、実行に移されていく。潜在的な理念から、実行される出来事へ。
…例えば正方形から演繹される、縦線・横線・斜線(右上から左下)・斜線(左上から右下)の四パターン。順番に重ねていくことで四パターンの模様を得て、

それをさらに一つづつずらしていくことでさらに四パターンの組み合わせができる、とか。

あるいは記事内に11回現れるartという単語へ、四つの頂点と四つの辺から演繹される4×2×11の青い直線が全パターン書き出されるとか…。

ルウィットでいつも思い出すのはかつて中高生だった頃の数学のテストで、公式で解決できるであろう問題が分からなくて、とにかく起こりうるパターンを全部一つ一つ、手書きで余白に書き出していたのだった…。
午前中にドナルド・ジャッドの展示を見てそれについてもちょっと書いたけど、ジャッドにはどこまでもユニットが反復・延長し突き抜けていく感覚があった。ルウィットは真逆というか、あくまで全体が常に潜在し、その中での可能性を全て汲み尽くすような、閉じられた構造内での反復がある。
*
とはいえ、閉鎖的といっても今回の展示からは不思議と圧迫感は受けなくて、一つ一つの可能性を試す時の知的な軽やかさのようなものを感じた。それは線の柔らかな質感にも拠っていたのかもしれない。
それに、単に閉じているという訳ではなく、様々な可能性への開かれもそこにあるようなのだ。理念的な全体=外枠としての四角形から、その内部に必然的に導かれる形。でも、その全体=外枠のサイズ自体には恣意性がある。
メインビジュアルの作品。壁=外枠四角形の中心からの青円、右上の頂点への赤線、その交点からの黄線、と指示される。それらは外枠から自動的に決定されるが、外枠自体はどんな大きさか未決定である。内部を演繹するための壁の四角形それ自体は、どんな大きさでも良い…様々の可変性に開かれている。正方形か長方形か、辺の長さ如何で、同じ指示でも内部に出てくる形にはバリエーションが出てくるだろう。

アスレチックのような滋賀県美のストラクチャーにしてもそうだ。1×1×1、2×2×2、3×3×3、4×4×4、5×5×5の立方体が連続するが、6×6×6から先を付け加える可能性を排除するわけでもない。構造が現れる法則性は5×5×5以上でも以下でも必然的に変わらないが、5×5×5以上にするか以下にするか、それ自体には恣意性がある。

…というようなことを考えていてふと思いあたったのは、理念的な全体=外枠としての四角形の可能性は、物理的な全体としての美術館の空間に制限されるということだ。作品の現れる大きさは、あくまで展示室内に収まらざるを得ないから。
美術館という空間。閉じた領域を作るなら、円でも、三角形でも、五角形でも別によいはずだが、それでも四角形が原基に採用されるというのは、やはり絵画平面の四角形という伝統を反映しているんだろうか。一見軽やかで、オープンに思えた構造体も、やはり制度の中に縛りつけられているのだろうか。
*
再びしかし。本展を見て感じるのは、現れたパターンの物理的な大きさである。それはまるで理念の方が駆動して、その暴力性を誇示しながら物質を従えるかのよう。…とにかくデカい。展示室の物理的制限に対して、ぎりぎりまで拮抗するかの如く巨大な壁。物理的に動かすのではなく、質量をもたない理念の力で、軽々と、物体をほしいままにあやつり、圧倒するかのようでもあった。
軽やかな見た目の裏で、必然性と恣意性が、また理念と物質が、もの凄い緊張感でぶつかり合っている、そんな展示だったと思うし、それが面白くて魅入ってしまった。
*
それを経た後で、後半の色彩の作品は拍子抜けしたような自由さだった。ある意味、それまでの前半の展示の緊張感があったからこそ際立つ、形の自由さと色彩の謳歌、なのかもしれない。とても良い色だった。

