映画『恋は雨上がりのように』——きれいに終わることが、これほど正しい映画も珍しい【ネタバレあり】
『きれいすぎる』と言われるこの映画は、きれいに終わることこそが設計上の正解だった。
<あらすじ>
東宝配給・2018年日本映画。
監督:永井聡、主演:小松菜奈、大泉洋。
原作は眉月じゅんの同名漫画。
高校二年生の橘あきらは、陸上部のエースとして将来を期待されていたが、アキレス腱の怪我をきっかけに走ることから離れてしまう。
悲しみに暮れる中、雨宿りに入ったファミレスで、冴えない中年店長・近藤正己と出会ったあきらは、やがて彼に恋をし、それをきっかけにファミレスでのバイトを始める。
夢を失い、立ち止まった女子高生。
小説家になる夢を諦め、日々の仕事に流されている中年男性。
年齢も立場も違う二人は、互いに惹かれ合いながらも、その関係は単純な恋愛にはならない。
あきらの恋は、彼女がもう一度走り出すためのきっかけとなり、店長にとっても、忘れていた自分の夢に向き合うきっかけとなっていく——
他出演に
清野菜名、磯村勇斗、葉山奨之、松本穂香、山本舞香、濱田マリ、
戸次重幸、吉田羊ら。
——これは「恋が実るかどうか」の映画ではない
原作、アニメ未視聴。
『恋は雨上がりのように』は、ほぼ完璧な映画だと思った。
派手な事件が起きるわけではない。恋愛映画として劇的に燃え上がるわけでもない。誰かが大きな犠牲を払うわけでも、痛烈な結末が待っているわけでもない。
けれど、余白、成長、必然性、そして選択。そのすべてが、きちんと設計通りに機能している。
だからこそ、ラストはあれでいい。いや、あれでなければならない。
この映画を恋愛映画として見ると、物足りないと感じる人はいると思う。
女子高生が中年男性に恋をする——
しかも相手は、バイト先のファミレス店長。
いわゆる年の差、恋愛もの…そう受けとられると思う。
実際、見終わった人でも、その認識のままの人も多いかもしれない。
それはそれで正しいと思う。
ただ、この物語がただの恋愛を描いているのかと言うと、そうではない。
この作品は二人の恋愛を通して、自らの「夢を振り返る」物語だ。
夢を追い求めるでもなく、再起するのではなく、ここであえて「振り返る」としたのは、まさに私がそう感じたからだ。
一度、遠ざかった夢——それを少し経った、あるいは中年になって、青春時代の夢をもう一度見つめ直し、どういう思いだったのかを振り返り、再び向かっていく姿を描いていたからだ。
——タイトルが、ゴールを先に宣言している
そもそも「雨上がり」という言葉が指すのは、雨が降っている最中でも、降り出す前でもない。
もう降り止んで、空がだんだん晴れていく時間のことだ。
つまりタイトルそのものが、この作品は感情の置きどころを、タイトルの時点で「静かに晴れていく」と宣言している。
荒れた感情のクライマックスで終わる話ではない、と最初から約束している。
この映画に対して「きれいにまとまりすぎている」という批判がある。
もっと踏み込んだ恋愛を、もっと苦い結末を、もっと痛みや破綻を——そういう見方もあるだろう。
けれど、それを「静かすぎる」「晴れすぎる」と責めるのは、雨上がりに向かって「雨が降っていない」と文句を言っているようなものだと思う。
設計が掲げたゴールを、その設計がはじめから採用していない基準で採点している。それはフェアではない。
きれいにまとまっていなければ「中途半端」と言われ、
きれいにまとまっていれば「きれいすぎる」と言われる。
正直、どうすればいいんだよ…と言いたくなる。
ただ、この映画に関しては、きれいに終わることにきちんと意味がある。
雨が降る。
立ち止まる。
濡れる。
それでも、やがて雨は上がる——
この映画に必要だったのは、嵐でも修羅場でも破滅でもなく、雨が上がったあとの少し澄んだ空気だ。
だから、きれいに終わることは逃げではない。設計通りの到達点だと思う。
——年の差を、搾取の物語にしなかった
さて、一番厄介な部分がここだ。
いわゆる年の差カップルの物語は、相手が若い女性だと批判されがちだ。
性の搾取ではないか。
年上男性の欲望を美化しているのではないか。
経験差や立場差を利用しているのではないか。
そういう批判が出ること自体はわかる。
あきらは女子高生——小松菜奈で、店長は中年男性——大泉洋。
しかもバイト先の上司でもある。現実的に見れば、かなり危うい関係だ。
ただ、この作品を見ていると、それだけで「搾取」と断じるのは雑だと思う。
なぜなら、二人は文字通り恋愛をしていたからだ。
よくある年の差カップルものは、この部分を軽視したものが多い。
恋愛した上での必然性よりも、男性目線のご都合主義に傾きがちだ。
実際、そうした物語を見ても、男性はわりと気づきにくいから厄介だ。
だが、この映画は店長があきらを利用しないことを、かなり丁寧に描いている。
わかりやすいのは、雨の日、店長が風邪をひき、あきらが訪ねていった場面だ。
この時、店長はあきらに抱きつかれる。
そして、思わず抱き締め返してしまう。
店長もまったく揺れていないわけではない。
あきらの本気に触れて、感情が動いてしまっているシーンだ。
でも、すぐに距離を取って謝り、「これはそういう意味ではない」と弁明する。
搾取する男なら、あの瞬間を利用するだろう。
向こうから抱きついてきた、拒まなかった、彼女も望んでいる——そうやって自分に都合のいい理屈を作って踏み込む。
だが、店長は逆をやっている。自分の揺れを、自分で止めている。相当な自制心である(笑)
ただ、これは「踏み込まなかった」という消極的な証拠だ。
ただし、恋愛をしていたことと、その恋愛に踏み込むことは別だ。
店長は確かにあきらに惹かれていた。
恋愛感情がなかったから越えなかったのではない。
恋愛感情があったからこそ、それを利用しなかったのだ。
もっと決定的なのは、店長が自分の子供の存在をあきらに隠さず、むしろさらけ出すシーンだ。
もし店長があきらを都合よく手元に置きたいなら、子供がいるという現実は隠した方がいい。
若い女性が抱いている「優しくて冴えないけれど、どこか素敵な店長」という幻想を壊す情報だからだ。
しかし店長は、あきらを自分の子供に接触させる。
それどころか、子供に「走り方を教えてあげてほしい」と頼む。
自分にとって最大の不利材料を、わざわざ目の前に差し出している。
これは二重に効いている。
一つは、現実を突きつけて恋から覚まそうとする牽制。
自分から幻想を壊しにいっている。搾取者は絶対にやらない動きだ。
そしてもう一つ——「走り方を教える」という形で、あきらの陸上選手としての夢を呼び起こさせている。
「自分に恋している女子高生」ではなく「走ることを知っている人」として扱っている。
そして、その誠実さは店長自身の弁明ではなく、第三者の口からも証明される。
店長がスポーツシューズ店で、陸上経験者のあきらの友だち——はるか(清野菜名)と知らず、質問をする。
「アキレス腱のケガから復帰した人はいないのか?」
あきらの見ていないところで、彼女が走りに戻れる道がないかを、店長は一人で本気で考えている。
あきらの人生を代わりに決めない、この距離の取り方が、作品全体を支えていると思う。
それまであきらの恋を友達として警戒していたはずのはるかも、この直後、別の友だちに「でも、悪い人ではなさそう」と、店長の本気を偶然受け取って、その警戒を解く。
観客が「この店長は信用していい大人だ」と確信する瞬間を、店長の自己弁護ではなく、友達の評価を通して立証している。
だから私は、この二人を年齢差だけでは説明できない恋愛だと思った。
出会いがあり、憧れがあり、戸惑いがあり、拒絶があり、それでも互いに影響を与え合う時間がある。
ちゃんと恋愛のステップがある。
年の差は、この恋を動かすエンジンではない。
たまたまそこにあった一条件にすぎない。
年の差は、この恋を生んだ理由ではない。
結果として、そこにあった現実だ。
あきらは「中年男性だから」店長を好きになったのではないし、店長も「女子高生だから」あきらに揺れたのではない。
二人はまず出会い、惹かれ合った。
そのあとに、年齢差と立場差という現実が立ちはだかった。
だからこれは、年の差を売り物にした恋愛ではない。結果として年の差があった恋愛なのだ。
この作品が優れているのは、年の差を都合よく無視したことではない。
年の差があるからこそ成就させず、それでも恋そのものは否定しなかったところにあると思う。
——鏡となるライバル
では、あきらの再起はどう描かれているか。
鍵になるのが、倉田みずき(山本舞香)の存在だ。
みずきは、あきらを目標にしてきたライバルで、アキレス腱の故障を乗り越えて復帰し、すでにあきらの大会記録を抜きそうなところまで復活している陸上選手だ。
あきらと同じ傷、同じ競技、そして先に立ち直っている。
これは「並走者」ではなく、完全な「鏡」としての存在だ。
しかもこの鏡は、ただ希望を映すだけではない。
「みずきにできたなら、あきらにもできる」という推論を、観客の頭の中に自然に沸き起こさせる。
一方、「このまま止まっていたら抜かれる」という焦りも同時に映す。
だからあきらの再起は、優しい励ましだけでなく、競争の現実からも背中を押される。
一つの存在に二つの役割を負わせている、緻密な配置だと思う。
そしてもう一つ重要なのが、そのみずきの復帰のきっかけそのものが、そもそも「あきらの走り」だったことだ。
あきら自身は、自分はもう終わったと思っている。
けれど、彼女の走りはすでに誰かを動かしていた。
自分では価値を失ったと思っていた時間が、他人の中では再起のきっかけとして生きていた。
だから、あきらがもう一度走り出すことは、単なる自己回復ではない。
自分が諦めたと思っていたものの価値を、もう一度受け取り直す行為になっている。
——あきらと店長の恋は、このあとどうなるのか…観客の中で完成する物語
そして、この物語最大のポイント——あきらと近藤の恋が、このあとどうなるのか?
映画では、そこは明確になっていない。
あきらは目に涙をため、鼻を啜りながら言う。
「あたし達、友だちですよね?
友だちだったら、普通メールとかすると思うんです。
あたし、店長とメールしたいです」
店長は笑う。あきらも笑う。
このままでは、店長は絶対に恋人としての自分を受け入れてくれない。
だから、店長が受け取れる中で最大の要求をする。
「友だちとしてメールしたい」
その小さな救いに、二人が同時にたどり着いた笑い——
告白にためらいのなかったあきらが、目に涙を貯めて啜り泣いている…この瞬間のあきらは、おそらく関係の終止符を打たれる覚悟をしていたのだろう。
おそらく、告白そのものより勇気のいった行動だった。
だからこそあきらは、ああいう反応になったんだと思う。
そして、ここで映画は終わる。
——観客は誰もが思うはずだ。
「あのあと、あきらと店長はどうなるんだろう?」
あきらが時間をかけて、店長を口説き落とすのか?
あきらが成長していき、やがて店長を忘れていくのか?
それとも…
雨は上がったが、まだ地面は濡れている。
やがて乾いていくのか?また雨が降るのか?
各人それぞれが、思い思いの続きを頭の中に描く…
それこそが、この映画が目指したラストなんだと思う。
——まとめ
『恋は雨上がりのように』は、恋愛映画でありながら、恋愛の成就だけを目的にしていない。
描かれているのは、雨の中で立ち止まっていた二人——雨宿りをしていた二人が、もう一度それぞれの人生へ戻っていくまでの時間だ。
年の差はある。立場差もある。危うさもある。
けれど店長は、その差を利用しない。
だからこの映画は、搾取の物語にならない。
恋を否定せず、夢も諦めさせず、大人の誠実さも少女の本気も、どちらも雑に処理しない。
そして最後に、物語は静かに晴れやかに終わる。「きれいにまとまりすぎている」のではない。きれいに終わることが、この映画にとって最も正しい。
濡れた時間は消えない。でも、空は晴れている。そして二人は、それぞれの場所へ歩き出す。
その余白の中で、二人の恋は観客一人ひとりの心の中に残り続ける。
あの二人は、このあとどうなっていくのだろう——その問いが残ること自体が、この映画が完成しているという証拠なのだと思う。

