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ところてんの法則

ダイレクトメールが入っている糊付きのビニール袋を開けるのに失敗した。
袋は互い違いに細かくビリビリと破け、中身を出すのに無駄な一苦労を要するほど。あまりの状態に「袋を開ける才能がなさすぎる……」と呟くと、「こんなの才能じゃなくて袋が悪くない?」と隣にいた友人が言うので目から鱗が落ちた。袋が悪いなんて考えたこともなかった。
「袋を開ける才能」が、自分にあるのかないのか本気で考えていたわけではない。でもこのどうでもいい袋に対してですら、当然のように自分のせいだと言う私に驚いたのはおそらく友人の方だろう。
「え!?そうなの?袋?袋が悪いの?」と言うと、そりゃそうでしょと困惑気味に言われた。

昔から優等生になりたくて上ばかり見てきたせいで、私はあらゆる失敗が許せないし、失敗しないようにと常に怯えている。完璧になれない完璧主義者の自己肯定感なんて、低いどころかないようなものだ。


ポスターのデザインコンペに参加したとき。美大でデザインを勉強してきたにも関わらず、落ちることを真っ先に想像し、もう何年も参加することすらできずにいた。参加する前から勝手に否定された気になっていたのだ。それでもいつか目に見える形で誰かに認めてもらいたいと思っていた私は、ある人の一言をきっかけにいくつかのコンペに出すことを決意した。
するとしばらくして、応募した内の1つから中間審査を通過したとのメールが来た。私のを含めて通過したのは6作品。私は飛び上がった。その直後、電話も鳴る。見知らぬ番号。おそらく事務局から。初めてのことに手も声も震える。
スマホ越しに聞こえる穏やかな「おめでとうございます」に少しホッとした。もっとも電話の内容は、最終選考に向けての事務的なことだったが、それも通過しないと聞けない話だと思うと嬉しかった。
その場でぺこぺこしたり、無駄に部屋の中を行ったり来たりしながら詳細を聞いて電話を切った。

早速夫にLINEで報告すると、「へえ!すごいね!」とご機嫌な返信が来た。気を良くして中間審査通過のメールを何度も見返すなどして舞い上がっていたのも束の間、頭の一部がだんだん冷静になってくる。脳裏に浮かんだのは「応募数がせいぜい10作品程度だったのではないか」。湧き上がる高揚感は、すぐ卑屈な疑念と不安に取って代わられそうになる。
その後、その作品は最優秀賞に選ばれ、もう一回叫んだ。受賞メールにキャーキャー言いながらも今度は「審査員の好みに合致したんだ。良かった!」と喜び捻くれた。
賞状を見るたびに「すごいねぇ、よかったねぇ」とたった今受賞したかのように繰り返し言ってくれる夫に対し、時間が経つごとにどんどんと萎んでいく私。
あんなに嬉しかったのに、私はガムの味がなくなるのが早すぎる。意を決して挑戦したことですら、自分の成果だと思えてないからかもしれない。
受賞したのは、「運が良かった」?

向かうのはいつもの結論。
私は自分の実力や努力を信じられない。失敗すれば当然、自分の力不足だと思う。では成功したときにどうなるかと言えば、その成果は運だったことにしてしまう。

私の中で「自己肯定感」の対は「運」。それはまるで、天と地で繋がった一本の「ところてん」だ。
自己肯定感が低い人は、自分の「ところてん」をグッと天突きで地面へと押し込む。認められるはずだった自己肯定感は行き場をなくし、代わりに運として押し出てくる。
逆に自己肯定感が高い人は、自分の実力を信じられる。押し込む必要のない「ところてん」は、地面から背高くどっしりと立っている。そんなイメージ。
大抵は適度なバランスをしてるんだろうが、私は圧倒的に運のところてんを浴びている。頭から降ってくるシャワーを浴びながらそう思った。
しかし世の中には運なんて信じないというタイプの人もいる。


カルディの福袋は、毎年人気で争奪戦になる。以前は先着順だったが、ある年から事前抽選に変わった。スマホからぺっと抽選ボタンを押すだけだが、その運試しがワクワクして楽しい。しかしSNSを見れば私とは対照的な人がいた。

「今までは早く列に並べば確実にゲットできたのに、抽選にしたら絶対手に入らないじゃない!」と怒っている。絶対、と言い切る見知らぬ彼女からは、運が降らない天と、地面から太く高く生えている「ところてん」が見える。私とは逆方向に極端。彼女は彼女で運を信じられない何かがあったんだろう。お互いの爪の垢を交換してもいいかもしれない。


ただ、そんな息苦しい法則にも救済がある。母の言葉だ。
受験のとき、母は「努力した上で失敗したのなら、それは縁がなかったということよ」と言った。いつも以上に「失敗すれば死!」みたいな形相の私を見かねたのかもしれない。別に親がプレッシャーをかけていたわけじゃない。常に自分の首を自分できつめに締めているだけなのだ。
「ただ縁がなかっただけ」という言葉は、例え望まない結果になったとしても、それは進むべき道ではなかったというコンパスに思えた。
都度思い出すその言葉は、失敗の痛みを和らげると同時に、「努力が足りなかった」と責めすぎる心から、私を守ってくれていたんだろう。
だから成功した時のことだけを都合よく覚えていて、余計「運がいい」と感じているのかもしれないけど。


私の厄介なところは、自分の努力は頑なに認められないくせに、他人の成功は努力だと迷わず信じている点だ。
SNSをうっかり開けば、キラキラの棘であっという間に串刺しになってしまう。メッセージアプリの通知音がなったなとスマホを触れば、ついSNSも見てしまい、「なにそれを受賞しました!」「展示会やります!」「大きな仕事を担当しました!」などの報告の渦に巻き込まれる。ありとあらゆる事象に、尊敬と祝福と羨望と凹みと自責の念が渦巻く。スマホをぶん投げたいのに、またアプリの通知音が鳴って開いてしまう地獄。

他人にも「運が良かっただけ」なんて思えれば、自分だけが薄味のガムを噛まずに済むのに。どうしてみんなは濃い味なんだろう。

それでも、そうやってもがいている私を助けてくれるのはいつも周囲の人たちだ。「才能がない」「私なんて」と口癖のように言う私を、友人たちは「そんなに自分を否定しちゃダメだ」と根気強く言い続けてくれた。
些細なことでもうだめだと落ち込めば、その度に「失敗してもリカバリすればいいんだよ」という姿勢を見せてくれる。袋がビリビリになってもなんの問題もない。どうせ捨てるし袋が悪い。
美大の友達は「コンペの一次審査で落ちて悔しい」とSNSで正直に書いていた。その素直な言葉のおかげで私もコンペに挑戦できた。受賞者以外は全員落ちている。また挑戦すればいいだけだ。
またあるときは、寝坊したってタクシー乗って間に合えばOK!という友人の行動を見てまた驚いた。それもそうだ。
大概のことでは死にはしないということが実感として分かってきた。失敗したあとの、立ち上がる方法も。
おかげで結果がどうあっても、少しだけ、ちゃんとベストを尽くせたよねと自分を許すことができるようになった。


そんな風に言ってくれる人たちに恵まれて、やっぱり私は運がいいと思ってしまうから、ところてんの法則は厄介だ。

なんだかんだ運を愛してる私。
そんなことを言ったら、カルディの彼女には目を剥かれそうだけど。


キラッと光るところてん。
またパックが上手に開かない。

これは、パックが悪い。




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Erika いつも一人相撲にお付き合いくださり、ありがとうございます。 おかげさまで、楽しい記事が書けます🍩