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15年目の春に、美輪明宏さんの言葉をもう一度――絶望の中で聞いた「日本は大丈夫」

①序章 今も明るい社会ではないけれど


 街の緑が日ごとに濃くなっていく、2026年の5月。
 アメリカによるイラクへの攻撃は止まず、世界経済への混乱、果ては「ナフサショック」という社会への影響は計り知れないこの頃だ。

  何とも言えないもどかしさを抱きながら私は今、ある記憶を呼び覚まそうとしている。それは「東日本大震災」というあの頃を知るからこそ、そこで出会った安心・安らぎ・希望の光だった。15年という節目を迎えた今だからこそ、もう一度言葉にして留めておきたい大切な記憶だ。

 当時、私はBS11の『テリー伊藤の月に吠えろ!』というトーク番組で構成作家を務めていた。BSとはいえ、伊藤さんの圧倒的な人脈によって毎週のように豪華なゲストがスタジオにやってきた。そのお陰で、私は多くの著名人に事前インタビューを行う機会に恵まれていた。

② 西村賢太さんとの暗闇の中で聞いたユーモア

 東日本大震災が起きたのは、まさにそんな慌ただしい日々の最中だった。 混乱が続く中、お会いしたのは、『苦役列車』で芥川賞を受賞したばかりの、今は亡き作家の西村賢太さんだった。 世の中は計画停電の真っ最中。電灯すら灯らない薄暗い新潮社の暖房も効かない一室で、私たちは膝を突き合わせて打ち合わせをした。重苦しい現実から目を逸らしたい思いを抱え、プロとして番組のテーマであった「西村さんの世の中へ吠えたいネタ」を伺った。

 とりわけ可笑しかったのは、昔から大の日本ハムファイターズ党である西村さんが、突然「俺は今の日本ハムに怒ってるんだ!」と憤慨し始めたことだ。 理由を尋ねると、「監督がイケメン過ぎる!」という。かつての日本ハムといえば、土橋監督や大沢親分、近藤監督といった、いかつい男たちがベンチを率いるのが定番だった。それが梨田監督を境に、ヒルマン監督、栗山監督と続き、今や新庄監督がそのポジションを担っている。

 女性客を意識したかのような「イケメン・ナイスダディ系」の系譜が脈々と続いていることに、西村さんは我慢がならなかったらしい。 福島原発の問題の只中、マッチ売りの少女のマッチの炎のように一瞬の笑いは救いだった。また、そんなユニークな視点で怒り狂う西村さんの姿に、心を温めてもらえた気がした。

 そしてこの時期、私の人生において決して忘れられない、もう一人の人物にお会いすることになる。 美輪明宏さんだ。

③ 美輪さんへのインタビューと「ヨイトマケの唄」


 美輪さんへのインタビューが決まった時、私はかつてないほど高揚していた。横浜の映画館へ美輪さんの舞台映像『蜘蛛女』を観に走り、名著『紫の履歴書』や『正負の法則』を貪るように読み漁った。 もともと尊敬し、少なからず影響を受けてきた存在だ。

 だからこそ、ありきたりなインタビューで終わらせたくなかった。「誰もぶつけたことのない質問をして、美輪さんに『彼は、本気ね』と思わせたい」――当時の私は42歳ぐらいだろうか?構成作家としてはベテランの域だが、尊敬する人に一目置かれたいただの若者に戻っていた。それは今の大河ドラマ「豊臣兄弟」における農民上がりの秀吉が主君、織田信長に認められたいような、青臭い必死さだったかもしれない。

 当時、私が心酔していたのが、美輪さんの代表曲『ヨイトマケの唄』だった。きっかけは桑田佳祐さんのカバーだったかもしれない。描かれているのは「母の無償の愛」

 いじめられた息子が、慰めてもらおうと母の下に行こうとするが、そこで見たのは、泥にまみれて男と一緒に土方として働く母の背中。その光景を目の当たりにし、「かあちゃん、ごめん」と心でつぶやく。息子は大人への階段を一歩上がり、一生懸命に勉強してやがてエンジニアになる。ようやく人並みの幸せを手にし、亡き母に「どうだ、かあちゃん見てるか!」と感謝するという内容だ。展開も結末もすべて分かっているのに、何度聴いても涙が溢れて止まらなかった。

 その時、ふと思ったのだ。この歌が発表されたのは1965年。私は初めて聴いた当時からすでに50年近くの歳月が流れていた。時代を超えた歌が、私の心を揺さぶるこの感動は、決して私一人のものではないはずだ。これは人間の普遍的な感情であり、きっと『源氏物語』が1000年の時を超えて今なお読まれているように、この曲もまた1000年後の人々の涙を誘うのではないか、と気づいた。

④ 1000年後の質問と、美智子様

 インタビューは美輪さんの自宅に招かれての異例の対応だった。通常、タレントとの打ち合わせといえば、芸能事務所や制作会社、あるいはカフェやホテルが定番だ。尊敬する美輪さんの私邸で過ごしたその時間は、私の人生の宝となった。

 駐車場にはド派手なピンク色の車。部屋には美輪さんのいろいろなアーティストが尊敬の証として描いたのだろう、様々な肖像画、ポスター、彫刻が飾られていた。ほんのソファの目の前にいる美輪さんに、私は用意していた質問をぶつけた。

 「私は『ヨイトマケの唄』を聴くたびに涙が止まらなくなります。これは1000年後の人が聴いても同じだと思うのです。もし、1000年後の未来の人に『美輪明宏とは誰か』と問われたら、どの写真を遺したいですか?」歌詞を思い出し、声を震わせながら質問をぶつけた。

 美輪さんは微笑み、かつて「神武以来の美少年」と世を席巻した、15歳当時のご自身の写真を挙げられた。(蛇足だが、それは作家・三島由紀夫がこの世で最も美しい少年は『妖しい少年」であると言ったが、当時の美輪さんの写真は15歳ながら妖しさを醸し出す一枚だ。ネットでも検索をすれば、すぐに見つかるだろう。)1000年先を見据えた私の問いに、美輪さんはまっすぐに応えてくださった。

 さらに圧倒的な品格と美を兼ね備える美輪さんに、どうしても聞きたい質問を重ねた。

「美輪さんにとっての『美しい人』とは誰ですか?」

 過去のあらゆるインタビューを調べても、この問いは見当たらなかった。美輪さんが「美」の対象として誰の影響を受けているのか?誰を「美しい」と感じているのか?知りたかった。この問いの前に何という答えが返ってくるのか、事前に想像した。原節子さんか、吉永小百合さんはまだ若いか、、、あるいはオードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローか。または歴史上の偉人か?妄想が膨らむ中、美輪さんは一片の迷いも見せることなく、きっぱりと即答された。

「それは、美智子様です」

 その言葉の響きに含まれた格別の敬意に、私は震えるほどの感動を覚えた。日本人としての「佇まいや振舞いの美しさ」や「美意識の象徴」を美智子様から、美輪さんが見出しているのだと、肌で感じた瞬間だった。

 そして、インタビューは核心へと。日本中が震災の痛みに苦しんでいたあの状況下で、私はどうしても訊ねずにはいられなかった。

「美輪さん、今、日本は震災で多くの方が言葉にできない苦しみの中にいます。何か、励ましの言葉をかけていただけないでしょうか?」

 美輪さんはやはり、深く悩むような仕草は見せなかった。ただ、「それはね」と、静かに一呼吸置いてから、こう語りかけてくれた。

 「日本は大丈夫です。日本は戦後間もない頃、全土が焼け野原となり、そこから奇跡の復活を遂げた国ですから。今、東日本の人々が苦しんでいます。けれど、西日本の人々は大丈夫です。だったら、西日本の人々が東日本の人々を支えてあげればいいのですよ

 その答えを耳にした瞬間、抑えきれない涙がこみ上げた。 まさに「言葉の力」を感じた瞬間だった。その言葉を聞いたからといって、目の前の厳しい現実がすぐに一変するわけではない。

 けれど、美輪さんの言葉は暗闇を照らす圧倒的な希望に満ちていた。「そうだ、日本はまだ大丈夫だ」――絶望の中に差した一筋の光のように、あの勇気の灯火を、私は昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。

 あれから、15年。 新緑の風が吹き抜ける2026年の今、私はふと思う。 今、私たちの生きるこの日本は、まだ、大丈夫だろうか?

 あの時、西から東へと支援の輪を、日本の力を、私たちはまだ、忘れずにいられているだろうか。

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