不思議話(3章) 修行道場卒業の帰り道に、火球を見る。~天体的な奇瑞はどのようにして起こるか~
今回は、不思議話第8弾。
ついに「3章.不思議話を列挙する」に入ります。
(これまでのツリーは以下より閲覧できます)
3章.不思議話を列挙する
2章では、不思議な体験の中で重要であったことを先に取り上げた。
特に「1.八坂神社での出来事」「4.大神神社での感光」は、そうしたことを真正面から受け入れるために重要な出来事であったことは、読んでいただければ伝わったものと思う。
この3章では、
今までに記したもの以外に沢山経験した不可思議な経験について、そのうち表に話すことが出来る一部分について、列挙していくことにしよう。
多くの人々が、神秘的なものを事実として認識していくきっかけになって、当然のこととなる日を願うばかりである。
※目次は随時、まとめツリーにページにて更新します。
修行道場を卒業した夜の火球(2021.3.18)
今回は、「修行道場を卒業した夜、火球を見た」という話を記します。
昔から、彗星、超新星爆発、日食など、「天体の不思議な出来事」については、世界各地で「奇瑞」や「凶事」として考えられやすく、昔の記録にも多々記されている。
現代人の我々からすれば、そのようなことはあくまで「天体の事象」として既に仕組みも判明していることばかりであり、あくまで科学的な理解がなされ、神秘的な理解は「古人の勘違い」であったというように理解されがちである。
たしかに「日食」などは、科学的に理解されるようなメカニズムにしたがって“定期的に生じる”ものであり、昔の人が考えたような「摩訶不思議な神秘的な事象」ではなく、何か凶事の前触れなどということもなく、そこに相関関係はないと捉えるのが妥当であるようにも思われる。
彗星にしても、超新星爆発にしても同様であろう。
そうした天体的な奇瑞として例えば、
日蓮聖人が斬首に遭われようとしている際に、江ノ島の方から不思議な光が飛んできて、斬首が中断された等という逸話などが有名であるが、現代的な見方からは「流星群」であっただろうという理解が示されたりすることが標準となっている。
私は「疑の人」であったので、こうしたことを容易に素直に受け取ることは出来ない類の人間であったため、半分は「そうしたこともあるかもしれない」と信じながら、半分は「後から創作された逸話」か、「何かしら実際上の天体的事象と偶然一致しただけに過ぎない」ものであろうと、現代の多くの人々同様に思っていたものである。
そんな私が経験したことと、そこから理解したことを記す。
修行道場を卒業した夜、火球を見る

私は、23歳~25歳(2019.4~2021.3)にかけて、
二年間にわたって僧侶の修行道場生活をしていた。
なかなか厳しい生活で、一日の間に休まる時間がほとんどない中、ゆっくり考える余裕もなく辛い日々であった。
私は過去世の記憶があったり、在家からわざわざ志して僧侶の道へ入った都合上、「今の僧侶界や修行に対して思うところが多く、悶々とした日々を過ごしていた」ものであった。
そして、それらを解消する心づもりで暮らしていたのが、
ついに悶々としたまま資格を得て卒業する日を迎えてしまった。

卒業の日。
夜は修行の同期たちでゆっくり語らいあった。
悶々とした気持ちは一切解消されることなく、京都の道場であった寺から、大阪の実家へほとんど終電で帰り、最寄駅から実家へ歩いて帰っていたその途中であった。
「ああ、ついに卒業日を迎えてしまい、僧侶教師の資格を得てしまった。」
「卒業する頃には全ての疑を晴らし、すっきり堂々と僧侶として立つ目標であったが、達成されず悶々としたままである。このような心持で家には帰れない。坐禅してみよう…」
と実家に着く直前にある公園に入り、
23時頃であったがベンチに結跏趺坐を以て坐した。
色々と二年間のことが思われ、その間「解決できなかったこと」「悶々としたこと」などが一つ一つ浮かび上がってくる。
「ああ、本当に苦しかった。
結局、心が定まることなく今日を迎えてしまった。
今日資格を得てしまった。
道場生活は、あまりに思うところが多かった。」
「そうだ。古くから宗教的世界には天体の奇瑞が現われている。」
「わたしはこのようなことを到底信じられない。
いっそのこと、今日、この道場生活の結果として、もし私が心中で思ってきたことが正しく、正しい道を歩めているのだと肯定くださるならば、
天か神か仏か何かわからないが、火球というものを見たことが無いので、どうか緑色のゆっくりと伸びていく火球をお見せ下さい…」
と強く念じるに至った。

その3秒後くらいであろうか。
天を見ていたら、緑色の大きな光が現れ、
ゆっくりと尾を引いて流れ去っていった。
目を疑った。
たしかに「緑色の大きな光」がゆっくり尾を引いて去った。
火球を実際に見たことがなかったので、そもそも今見たものが火球なのかもわからないし、道場生活の悲しみのあまりに幻想を作り出して幻覚を見てしまったのだろうか…とも思った。そこで、今どきであればSNSか何かで誰かが何か投稿しているだろうと思い、旧Twitterを開き「火球」と検索してみた。
すると大阪内の幾人のユーザーが同様に見たらしく、「火球を見た」との投稿がいくつか発見された。
衝撃であった…。
このときはまだ”八坂神社の宣言(2021年10月)のおよそ一年前のことであり、なぜそうしたことが起こるのかもよくわからぬまま、「宗教科学統合の理論も泥沼に沈んでいるまま」であったので、やはり信じ切るには至らぬまま、しかし明らかに「念じたままに生じたこの天体的事象」をどう捉えていいのかわからず、その一方では「あまりに苦しかった道場生活と、ふがいない卒業」の悲しみの前に、今起きたことへの歓喜で、ただしばらく混乱した。
COLUMN:なぜ天体的事象が神秘事象として起こるか
今、確かに念じたまま、天体的事象が生じた。
これはどう理解されるであろうかと考え始める。
しばらく考えて至った結論はこうである。
①天体的事象は、奇瑞として起こることも事実である。
②天体的事象は、あくまで科学的に理解される通りのものである。
この二つのことが同時に真実であり、片方だけを優先するものではない。
二つが同時に成立して、起こったと考えるのが適切である。
①奇瑞のようなものは、実は全て初めから定まっていることであり、運命と宿命という話でいえば「宿命」である。
(※もしくは究極的視点からは全てが宿命であると今は考えている。これはそのうち別に執筆する。)
②科学的にも、この火球の現象は予め物理法則に従って、そのときに出現することが私の意思とは無関係に決定していたものである。
この二つが共に真実ということになっている。
人生のあらゆることは、コードのように決まっているものであり、それが姿を現わしているものに過ぎない。
このコードと、物理的事象とはバラバラのものではなく、根が一つのものであって、もはやそのどちらでもないと結論付ける。
そのどちらでもないものが、
・一方では有機的/生命的な方面として現れ
・一方では無機的/物質的な方面として現れているに過ぎず、
表と裏が一体であるように、一体のものとして成立している。
このような「二つの相反するものが表裏一体となって成立しているようなこと」は世界に遍満しているとは、日頃の理論の執筆や法話で示しているところである。生命が男女という相反するものが融合して出来ていることなどは、この宇宙の仕組みを最もわかりやすく顕現したものであろう。
この有機的なことと、無機的なことが表裏一体となっていることにピントを合わせて喩えるとすれば、このnoteなどがまさにそのようになっている。
こうしたWEBページは、無機的な方面から見れば「単にPCの二進数が複雑に入り組んでいるだけ」のものである。これを有機的な方面から見れば、その「有機的な表示」であり、或いは「そこに文章の意味が表れて」いる。不思議なことであるが、半面から見れば無機的、半面から見れば有機的というように表裏一体で成立しているのである。
身体もそうである。片面では単に「化学物質でしかない」が、片面では単なる化学物質ではない「内臓などの機関やこころ」などがそこに有機的に機能している。
この天体的事象の問題はこれに同じであり、「有機的な面」と「無機的な面」が表裏一体となっているものなのだと結論付ける。
さらに言えば、これは天体的事象に限ったことではなく「実はこの日常の一切合切がそう」なのであって、「何気ない事象もすべて実はそうなっている」のである。目の前で起こるあらゆることは、無機的な面と有機的な面が矛盾なく表裏一体として目の前に起こっているというのが真相なのだと、経験を通して思われる。
ただ天体的事象はこの中で巨大なものであり、目につきやすいというだけのことに過ぎない。
その中で、ときどきしか生じないことの理由はすでに「プレゼント、道標」などとして説明したことが第一として挙げられるものと思う。
時としても何かの節目のようなときなどの時々にしか起こらないし、或いは人としても一部の人にしか分かりやすくは起こらなかったりするのであろう。
人生は予め「ある程度もしくは究極的には(ある方向から見れば)完全に決定」しており、「世界はコードのように成立」しており、物理的挙動はこれとは別に無機質な原理のみで成立していながら、そうした有機的な方面と矛盾なく一体に成立している。世界の全ては、ちょうど無機的とも有機的とも言えるプログラミングのコードのようになっており、節目に分かりやすい形で時々生じるということが起こったりもする。
実際には、もっと複雑な理論と共に説明するべきことであるが、軽い目にはこのように説明しておくことにしよう。
今回の火球は、その「わかりやすい姿として認識した/生じたもの」である、と理解するに至ったものである。
この天体的事象における奇瑞は昔からよく言われるところであり、またわたしの人生の中でも度々起こってくるものであって、今では慣れたこととなっている。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
私は本当に、この日までは天体的奇瑞を信じられるわけもありませんでしたが、この自らの経験で、そうしたものを”体感で”理解するに至りました。
こうしたことは、多くの人が気付かぬ間に体験したりもしていますし、このようにわかりやすいことは一生で一度くらいは経験することもあるかもしれません。もしくは人類全体で見れば、そのようなわかりやすい経験を全員がするものでもないかもしれません。
ただ、私はこのようなことを経験したことで、「何故そのようになっているか」まで含めて、私なりに理解することになったというお話でした。
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