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秋甫の風景

 その日、秋甫(あきほ)は、浅草寺さんへ参拝してから、カフェ月殿亭に むかった。七月の終わりに近い、暑い日だった。
 日傘を差していても、地表からの熱気は避けられず、出来るだけ、日陰を選んで歩いた。
 秋甫が、カフェに行ったのは、龍之介に会うためだった。約束があったわけではない。どうしても、龍之介の力を借りなければならない願い事が、あったのである。
 店に入ってすぐ、秋甫は、龍之介の姿を探した。しかし、そう都合よく龍之介が、店にいるはずはない。
 秋甫は、ちょっと、落胆した。その様子に気づいた小文(こふみ)が、
「龍之介さんと、約束でも」
 あったのか、と聞いた。
「約束はしていないのだけど、お願いがあって」
「龍さんは、最近、顔をみせないね」
 と、オーナーの友比古(ともひこ)が、キッチンから言った。
「ひょっとして、今日あたり、来るかもですよ」
 と、咲良(さら)が言った。
「急ぎの用事かい?」
 友比古に聞かれて、秋甫は、少し店で待つかどうか迷った。
 約束していればいいのだが、そうでなければ、待ちぼうけになる。
「秋甫さん、手紙書いたら?」
 と、小文が言った。
「龍之介さんがみえたら、渡すよ」
「ひょっとして、そろそろ、お店にやってくるかも」
 咲良が、笑う。
 秋甫は、小文から便箋と鉛筆を借りて、龍之介宛に手紙を書いた。

                                   photo by 紫陽花

 それから三日後の昼すぎ、秋甫は、北鎌倉駅にいた。
 いつもは、洋服だが、この日は、和服だった。祖母が生前、着ていたものを、秋甫の母親が、娘のために縫いなおしたものである。
 訪問先は、駅から歩いて十五分ほどのところにある、禅宗の古刹である。創建は、建長寺よりも少し後になる。
 この古刹に、一幅の掛け軸があった。それは、円相(えんそう)と言われる、禅宗における書画の一つで、丸い円を一筆で描いたものである。
 悟りや真理などを象徴的に表現したものとされ、円は、始まりも終わりもないことから、執着から解放された心を、意味するともいわれる。
 秋甫は、その円相を見せてもらうために、三日前、カフェ月殿亭で龍之介に手紙を書いたのである。
 あの日、龍之介は、文芸春秋社で社長の菊池寛と会い、食事のあと、一人でカフェにやってきた。
 龍之介は、秋甫の手紙を読み終えると、すぐさま、カフェから北鎌倉の禅院へ電話をかけて、いつでも秋甫が訪問できるように手配をした。

                                   photo by 紫陽花

 秋甫が、玄関で来意を告げると、若い寺僧が、応対に出てきて、
「住職より、うかがっております」
 と言った。
 秋甫は、寺僧のあとについて、よく手入れのされた庭の園路を、茶室へ向かった。途中、頭上に枝を拡げた青もみじが、暑熱をいくらか和らげてくれた。
 秋甫が、茶室に入ると、 亭主の住職が、にこやかな表情をうかべて、
「本日はまた、一段と、暑うございますな」
 と、言った。
「龍之介さんからは、筆と硯と墨、それと半紙だけを用意してほしいと、連絡がありましてな」
 そう言って笑うと、住職は茶を立てはじめた。
 そのとき、壁に、一幅の掛け軸が掛かっているのを、秋甫は認めた。龍之介に頼んでおいた「円相」であった。円が、一つ、一筆で書かれている。
 その掛け軸の下に、文机が置かれ、机の上には、使いこまれた硯、未使用の墨、太筆と細筆、半紙、文鎮が並べてあった。
 秋甫は、茶を一服してから、だれもいない茶室で、文机にむかった。
「墨は、優しい力で、時間をかけて磨(す)るのがいい」
 と、教えてくれた祖母の言葉を、思い出しながら、秋甫は、ゆっくりと墨を磨りはじめた。
 秋甫は、女学校で、書道の教師をしている。しかし、今日、禅院を訪れたのは、書道の修行をするためではない。
 半紙に円を書くためである。その書写をしながら、自分の満足のいく「円相」を書くことができれば、
「覚悟が決まる」
 と、思っている。

 一か月前、秋甫は、東京帝国大学医科大学で、診察を受け、手術をすすめられた。
「成功の確率は、五分五分」
 担当の教授から、その宣告を受けたとき、秋甫は、全身の血液が、足元から流れ出してゆくような感覚に襲われた。
 それからは、常に生死と隣り合わせの日々だった。どちらかに決めなければならないのだが、なかなか決断がつかない。
 そこで、秋甫は、一筆で、満足のいく「円」を書くことができれば、手術を受けようと決めたのである。書家としての、秋甫らしい選択であったかもしれない。
「うまく書けなければ、自分の書道もその程度のものであり、書家としての未来がないのであれば、この命も惜しくはない」

 秋甫は、墨を磨り終えた。
 一枚の半紙に、むかう緊張感は、秋甫がこれまでに経験したことのないものだった。それは、呼吸さえ忘れるほどだった。
 半紙の上を、すべる文鎮の、かすかな音。
 住職が用意してくれた太筆に、手の指を添えるとき、手が震えた。
 筆が墨を、ゆっくりと吸い上げる音まで聞こえそうな、茶室の静寂を、秋甫の心臓の鼓動が、引き裂くようだった。

                                   photo by 紫陽花

 半紙は、無限に用意されているわけではない。
 龍之介が、住職に頼んだのは、十枚だった。秋甫は、龍之介らしいと思った。
 もしも秋甫が、書家として未熟であれば、半紙を何百枚用意しても、「円相」は完成しないだろう。
「この十枚の半紙に、すべてを賭けなさい」
 そう、龍之介が、言っているような気がした。
 このとき、一瞬だが、墨が香った。それは、やわらかな香りだった。
 
 一時間ほどして、茶室の戸が開き、住職が戻ってきた。
「うまく書けましたかな」
「はい」
 秋甫は、笑みをうかべて、答えた。
 住職は、秋甫に、
「それでは、雅印を押したものを、本堂に、お納めいたしましょう。手術が無事に終わったら、受け取りにおいでなさい」
 秋甫は、自分の落款印を押した半紙を、住職に渡した。
 住職は、半紙を見て、満足そうにうなづいた。
 その半紙には、しかし、秋甫の落款印が押されているばかりで、どこにも「円」は書かれていなかった。

                                   photo by 紫陽花

                               おわり


※見出し画像は、壱橋零菜さんにお借りしました。感謝します。
 文中の写真は、最近、鎌倉を旅されたという<紫陽花>さんの了解を得
 て、掲載させていただきました。感謝します。