カフェ月殿亭の風景②
春が近くなったせいで、浅草寺さんの本堂の甍(いらか)にも、とき
どき陽炎のたつときがある。
やがて、墨堤の桜が、人々の眼を、楽しませてくれることだろう。
龍之介N(ナレーション)
「K氏は、百花とは、小学生のころからの幼馴染である。K氏の曾
祖父の代に地方から東京へでて来て、浅草に住むようになった。K氏
の祖父は、すでに故人だが、父親は、70代で健在である」
K氏は、日曜日には、かならず、浅草寺さんにお参りして、散歩の途
中に、カフェ月殿亭に立ちよる。
龍之介や百花と、珈琲を飲みながら、あれこれ話をする時間が、なに
よりの楽しみだった。
奥のオーバルテーブルに座っているK氏に、百花が、珈琲を運ぶと、
K 氏「百花さんは、私の祖母が、若いころ、隅田川に身を投げようとした
という話を、聞いたことはない?」
百 花「え? いきなり、何の話?(とおどろく)」
K 氏「うん、ほんと、いきなりというか、突然というか、当時1歳だった父
を抱きかかえて、祖母が隅田川に飛び込もうとしたというんだよ。こ
の話を、父は、祖母の一周忌の席で、叔母から聞かされたらしい」
龍之介N「その日、祖母(当時22歳)を訪ねた実の妹(当時19歳)が、実家
の話をしていた時、突然、祖母が、泣きながら、1歳になる父を、抱
きかかえて、裸足のまま、川のほうへ走り出した。妹は、すぐさま、
姉のあとを追い、投身寸前のところで、追いついたという。この一件
が、嫁ぎ先に与えた波紋は、小さくはなかった」
百 花「君のおばあさんは、奥多摩の農家の出身だったと、聞いたことがあ
るわ」

龍之介N「K氏の父親の話では、K氏の祖母が、祖父と結婚することになった
とき、両家で反対が起きたらしい。商家の嫁として、貧しい農家の娘
が、つとめを果たせるわけがないというのである。
それでも、祖父と祖母は、それぞれの家族の反対を押し切って、結婚
した。嫁ぐ日、祖母は、母親から、二度と家の敷居をまたいではなら
ないと言われた」
K 氏「祖母が苦労することは、目に見えていたんだ。商売の経験がない祖
母が、嫁ぎ先で、辛い日々を送ったことは、想像に難くないけど、1
歳の幼子を抱いて、自殺まで考えていたことを知り、父は、少なか
らずショックを受けていた。どれほど、祖母がつらい目に合っていた
のか……」
龍之介「無理もないね。家族の反対を押し切ってまで結婚したのだから、ど
んなにつらくても、実家へ泣きに帰ることはできない」
K 氏「祖母の母親は、娘を送りだしたとはいえ、やはり親として、娘の
ことが気になったらしく、ときどき、浅草へきて、陰ながら娘の様子
を見ていたようだ」
百 花「君の家では、近所の商家から、お嫁さんを迎える予定だったけど、
君のおじいさんが、おばあさんを選んだって、そんな話をきいたこと
がある」

K 氏「祖父方の曾祖母は、自分の身内から嫁を選ぶ心づもりだったけど、
祖父は、従わなかった。それで、祖母をつらい目に合わせて、祖母が
出てゆくように仕向けたらしい。離婚させて、その身内から後妻に迎
えるというわけさ」
龍之介「同じような話は、そのころの日本に、山ほどあったよ。珍しいこと
じゃない(とぽつり)」
K 氏「父は、母親から、とても可愛がられていたらしい。ほしいものがあ
れば、買ってもらえた。わがままも聞いてもらえた。父には、妹と弟
があるんだけど、父が一番可愛がられたと言っていた」
百 花「おばあさんは、君のお父さんをつれて死のうとしたことを、ずっと
気にしてたんだね。1歳といえば、かわいい盛りだよ。その子を抱い
て、川に飛び込もうとするなんて、よほどつらかったんだね(眼に涙
をうかべる)。小学生の時、朝、君を迎えにいくと、おばあちゃん
が、百(もも)ちゃん、いつもありがとうって。満面の笑顔でね。
よく覚えているよ。やさしいおばあちゃんだったね。そんな苦労をし
ていたとは……」

龍之介N「父親は、自分が、祖母と一緒に死んでいたら、お前は、この世に
生まれていなかったかもしれないと、K氏に言ったそうである。なる
ほど、そうかもしれない。しかし、また、K 氏には、別の人生があっ
た可能性も、ないではない」
K 氏「人の運命というのは、つくづく、不思議なものだと、考えるように
なったね。父の話を聞いてからは(と百花に)」
珈琲カップを口に運ぶK氏に、百花は、慈愛にみちたまなざしで、
応じた。

「CUT」
※作品の写真は、すべて、<音の風景>さんから許可を得て、貼付させてい
ただきました。感謝です。
※最後まで読んでもらえて、うれしいです。感謝です。
この風景の場所は、実際は、浅草ではなく、ある海沿いの街です。祖母
は、そこで、海に投身しようとしたと聞いています。祖母は、生前、その
ことについて、一言も父には話していませんでした。だから、父がその事
実を知ったときの気持ちは、よくわかります。
カフェ月殿亭の風景に、書いたのは、ずっと昔の、日本における家族制度
の中で、どれほど多くの哀しみや苦しみがあったのだろうかと思ったから
です。その中で、祖母と同じような思いをした女性が、少なくなかったと
いう事実、祖母がその中の一人だったことに、僕は父以上のショックをう
けました。
<音の風景>さんの花の写真を見たとき、その美しい花々が、古い家族
制度の中で、生きねばならなかった多くの女性たちへの、鎮魂の花になれ
ばと思ったのです。祖母も、きっと喜んでいることでしょう。
