浅草物語・Ⅲー①
ヴェルレーヌの雨
その夜、龍之介が、浅草寺さんの境内を通りかかったのは、午後10時すぎである。雷門から仲見世を通り、本堂前から、本堂と浅草神社にはさまれた通り道へ入った。
と、突然、眼の前に、まるで幽霊のように、若い女が出現した。彼女は一糸まとわぬ裸形(らぎょう)だった。その白い肌が、薄あかりのなかで、蒼く光った。
龍之介が、足を止めると、
「見えるの? わたしが見える?」
と、その女が、助けを求めるような声で、言った。
「ああ、はっきりと、君が見えているよ」
と、龍之介は、べつだん恐れる様子もなく、答えた。
女は、うれしそうに微笑むと、
「わたしを見つけて」
と、言った。
「見つける? 僕には、君がちゃんと見えているよ」
龍之介がそう言うと、女は少し悲しそうな眼で、
「暗くて、ここが、どこかわからないの。森の中らしいけど」
「森の中にいるのかい? 君の名前は?」
「津雲恵子(つくも・けいこ)」
そう名乗ると、煙のように消えた。
この時刻、カフェ月殿亭は、すでに閉店して、あかりは消えている。
龍之介が、月殿ビルの3階にある自分の部屋へ戻ろうとして、階段に足をかけた直後、脳裏に、13桁の数字が並んだ。
〈3547231390303〉

3月も、暖かな日が1週間つづいたかと思うと、次の1週間は2月の寒さに逆もどりである。
翌朝、龍之介は、いつものように、開店準備のため、1階のカフェ月殿亭へ降りた。
「龍之介さん、昨夜は遅かったみたいね」
と、モーニングサービスの準備をしていた百花が、キッチンから言った。
「上野からの電車を、間違えてね」
苦笑する龍之介に、娘のアカネが、
「龍之介さんは、方向音痴じゃないよね」
と、笑った。
「方向音痴じゃないと思うけど。ところで、アカネさん、昨夜、浅草神社のそばを通りかかったとき、若い女性に出会ってね」
と、龍之介が言った。
「彼女が、僕に、<3547231390303〉という数字を残したんだ」
「3547231390303?」
アカネは、即座に、その数字を復唱した。
「その女性って」
百花には、その女性が、龍之介にしか見えない存在だと、すぐにわかった。
「姿が見えるかと聞くから、見えると答えたんだが、彼女は、少し悲しそうな眼で、暗くて、ここが、どこかわからない。森の中、とだけ言って、どこかへ消えてしまったんだ。衣服は着けていなかった」
「龍之介さんは、霊を見たんだね」
と、アカネも、気がついたらしい。
「たぶんね。彼女は、津雲恵子(つくも・けいこ)って名乗ると、煙のように消えてしまった」
アカネは、すぐに、奥のオーバルテーブルへゆき、龍之介が使っているノートパソコンで、その13ケタの数字を検索した。
「ヒントは、森の中ね」
と、百花が、アカネに言った。
「見つけてほしいということは、森の中で迷っているのかしら? もしかして、地図の座標かな」
と、アカネが言った。
「龍之介さんが、女性の霊を見たのだとしたら、彼女はいまごろ」
百花の推測を引き取って、龍之介が、
「もう、生きていないかもしれないね」
と、言った。
アカネが、すぐに、ビンゴ、と小さく叫んだ。検索がヒットしたときの、アカネの癖である。
「この数字を、地図に当てはめてみると、北緯35度47分23秒・東経139度03分03秒の位置になる。奥多摩湖に近い森のどこかだね」
と、リケジョ(理系女子)のアカネが言った。
これより少しまえ、東京・奥多摩湖に近い森の中を、近所に住む老人が犬を連れて散歩していた。このあたりは、3月になっても、まだ雪が残っている。
老人と犬が、細い山道を歩いていると、突然、犬が草の斜面を勢いよく下って、土が少し盛り上がったあたりで、はげしく吠えはじめた。
老人が、犬の後を追って、斜面を下り、その場所に近づくと、土の中から、グレーのビニールシートが、わずかにのぞいている。
老人は、何かが埋まっているらしいことはわかったが、とても、一人でそれを確認する勇気はない。
老人は、110番に通報した。
カフェ月殿亭が、開店する10分ほど前に、客がきた。
「百花さん、埜瀬さんと吟子(ぎんこ)さんだよ」
と、珈琲豆を焙煎中の龍之介が、言った。
警視庁・捜査第一課・特別捜査第6係、通称<ユニット6・浅草分室>に勤務する、埜瀬治之(のせ・はるゆき)刑事と杠葉吟子(ゆずりは・ぎんこ)刑事である。
「龍之介さん、入ってもらっていいわよ」
と、百花が言うと、アカネが、
「事件かな?」
と言いながら、ドアを開けに行った。
「時間が早いけど、モーニング、頼めるかい?」
と、埜瀬刑事が言った。
「大丈夫ですよ。事件ですか?」
と、百花が言った。
龍之介は、キッチンで、珈琲の準備を始めている。
埜瀬と吟子は、オーバルテーブルに座った。
「奥多摩で、若い女性の遺体が発見されて、奥多摩署に捜査本部が置かれることになったんで、杠葉と一緒に現場へね。その前に、腹ごしらえを」
と、埜瀬が言った。
「まだ、被害者の身元がわからないので、なんとも言えないのですが、忙しくなりそうです」
と、吟子が言った。
アカネは、龍之介に聞いた数字から、津雲恵子という女性がいたと思われる場所を特定したが、それが奥多摩だった。
奥多摩で発見されたという女性は、おそらく、龍之介が、昨夜見た津雲恵子にちがいない。
百花は、龍之介が、たしかに、昨夜、女性の霊を、透視したのだと思った。
「その女性の名前は、わかったんですか?」
と、百花が、埜瀬に聞いた。
「まだなんだ。奥多摩署の捜査本部にいけば、なにかわかるかもしれない。この寒さの中で、捜査は辛いよ」

埜瀬刑事が、朝食をおえると、上着の胸ポケットから、鎖のついた懐中時計を取りだした。彼は、腕時計ではなく、この懐中時計を愛用しているらしい。
それをみて、龍之介は、思わず、眼をそらした。埜瀬が所持している懐中時計は、龍之介が、100年前に、20円で買い求めたニッケル製の懐中時計である。親友の詩人・佐藤春夫と同じ懐中時計だった。
自殺した龍之介の形見として、家族が、カフェ月殿亭のオーナーだった月殿友比古に渡したものを、友比古が、親友の埜瀬治之警部補に譲ったらしいと、百花に聞いた。
その懐中時計が、100年後に、なんらかの事情で、埜瀬刑事の手に渡ったのであろう。その様子を見ていた百花が、龍之介の気持ちを察して、同情の涙をうかべた。
(いつか、埜瀬さんから、譲ってもらおう)
と、百花は思った。
埜瀬刑事と杠葉刑事が、朝食を食べ終えて、店をでて行くと、アカネが、
「龍之介さん、奥多摩でみつかった女性は、津雲恵子さんにまちがいないね」
と、言った。
「龍之介さん、その女性の名前を、埜瀬さんに伝えた方がいいんじゃない?」
事件の手がかりになるかもしれないと、百花が言った。
「しかし、だれも、信じてくれないだろうね」
と、龍之介が言った。
そこへ、通勤・通学の常連さんたちが、次々にやってきて、事件のことどころではなくなった。

つづく
※見出し画像は<南かのん>さんにお借りしました。
