中島京子『坂の中のまち』(毎日読書メモ(568))
昨年11月に刊行された、中島京子『坂の中のまち』(文藝春秋)を読んだ。「オール讀物」に2021年~2024年にかけて掲載された短編連作に書下ろしのエピローグを付けたもの。
まず、優しいタッチの装丁が好き(装画・森優)。中扉と各章の扉の枠も可愛い。
そして、物語が大好き。中島京子の小説は出来るだけ刊行されたらすぐ読むようにしているが、その中でも群を抜いてわたしの好み。たぶんこの小説は中島京子の代表作ではない。一作一作風合いが全然違うので、この人はこういう作家、という定義がしにくく、結果、どの作品も、彼女の作風をあらわしている、とは言いがたいものがあるが、中島京子という人を人に紹介するのであれば、直木賞をとった『小さいおうち』か、在留外国人問題に切り込んだ『やさしい猫』か、認知症にどう向かい合うことが出来るかを示唆する『長いお別れ』、このあたりか。
ふんわりと生きる人たちの物語、という意味では『花桃実桃』『うらはぐさ風土記』あたりと似ているだろうか。
でも、この本に何より心打たれるのは、物語の本筋にも、登場人物たちの会話にも、突如現れる不思議なゲストキャラにも、溢れる文学への愛。
(この先少し小説のストーリーに踏み込むので未読の方は注意)
舞台は文京区。国立の女子大学に進学が決まって、富山から上京した坂中真智は、自分の母親も下宿していた、亡き祖母の友人久世志桜里の家に下宿することになる。家の一部をリフォームして、大学生の下宿や、民泊などにしている志桜里さんの家で、真智は衝撃の事実を聞かされる。この事実は物語のもう一つの通奏低音として、富山弁の「なーん」「なんなんなーん」という響きと共に何回もリフレインする。
志桜里さんは坂マニアで、自宅のある文京区小日向(こひなた、とも、こびなた、とも)について書かれた文献を集め書架に並べ、近隣の坂について語り出すと止まらない。切支丹坂(2014年に、江戸時代のシドッチ神父の骨が出土した、というエピソードが作中で2回出てくる)、暗闇坂、幽霊坂、鷺坂、蛙坂、藤坂、あたり中坂だらけ。都心でも文京区と港区は坂の多さで屈指なのは、自分自身、歩いたり走ったりしてよく知っているが、そうした坂に囲まれ、毎日登ったり下ったりして暮らす真智の姿がなんだか羨ましい。
真智自身は、そんなに文学に造詣が深いわけでもない、受験国語で知った教養に毛が生えたくらいの知識で、この地域に暮らし始めるのだが、大学で仲良くなった、鹿児島出身の「よしんば」(口癖が「よしんば」だからあだ名もそうなった、ってすごい女子大生だな。ちなみに「よしんば」以外にも、「なかんずく」「ゆくりなく」「さはさりながら」なども日常会話の中に出てくる)、よしんばに紹介されたインカレの文芸サークルで知り合った、文学オタクのエイフクさん、そして志桜里さんとの会話などの中で、坂のなかに息づく文学世界に取り込まれていく。
志桜里さんの留守にやってきたエアビー宿泊者のメアリーさんとお酒を飲んでいて意識を失い、志桜里さんが帰ってきたときにはそのメアリーさんは消えてしまっていたが、それはもしや真智が見た、フェノロサの妻の幻だったのか、とか、エイフクさんに横光利一愛を語られたり、江戸川乱歩「D坂の殺人」の犯人について議論を戦わせたり。庚申坂の上で、横溝正史と江戸川乱歩を主人公にした映画の撮影現場に遭遇したり。夏目漱石の超訳で有名なラブレターを貰い、帰省中には母から、母が森鴎外の鼠坂の小説について志桜里さんから聞いた話を教えてもらったりする。台湾の大学院に進学したエイフクさんの一瞬の帰京時に、東京ドームシティで待ち合わせをしていたら、安部公房の「鞄」ばりのおじさんに翻弄され、デートを台無しにされかかったりもする。家の周りを歩いていて、夏目漱石『こころ』に出てくる富坂じゃないか、と、突然教科書の中の名作が身近に迫る心地でいたら、その富坂をきっかけに「こころ」的な境遇に陥りかけたりもする。
なんて羨ましい生活! 中学生か高校生くらいでこの小説を読んでいたら、きっとわたしはめっちゃ感化されて、地図を片手に小日向を歩き回り、真剣に文京区に下宿する算段をしたに違いない。
エイフクさんと真智の会話を読むだけで憧れにうっとなり、わたしが真智のかわりにエイフクさんと話をしたい、と強く願ったであろう。というか、今から、わたしと話をしてくれるエイフクさんを大々的に募集したいくらいだ。
憧れにくらくらしながら読み進めてきたが、最終章で、新型コロナウィルスの蔓延がみんなの暮らしに影を落とす。真智が大学に進学したのが2019年春、と、小説の冒頭に書かれていたのだから、覚悟すべきことだったのに、文学と坂に目を奪われて、このような事態に、真智と共にうろたえる羽目となった。
しかし、この章が雑誌に掲載されたのは2024年の春だったので、書いている作者も、読者も、「明けない夜はない」と思って読んでいるところが、ちょっとポストコロナっぽいかも、という気がした(2類時代に発表され、感染症の真っただ中にいたときに読んだ小説には、先の見えない不安や絶望がもっと赤裸々に書かれていた気がするから)。
そして、小説は、外出がはばかられる暮らしの中、人っ子いない坂の上で、マスクをはずして深呼吸する真智の姿を描いて終わる。え、ここで終わり? あのー、続編ありですか?
と思ったら、たった1ページのエピローグでその先の真智の話を駆け足で説明されてしまった。続編やスピンオフはなしでしょうか?
わたしはいつまでもいつまでも、この坂の中の世界に浸っていたいのに。
という訳で、わたしのエイフクさん募集中です。
これまで読んだ中島京子の作品でnoteに感想を残しているもの。
うらはぐさ風土記 オリーブの実るころ ムーンライト・イン 均ちゃんの失踪、長いお別れ、眺望絶佳、のろのろ歩け、宇宙エンジン、東京観光、花桃実桃、小さいおうち、FUTON、平成大家族、ツアー1989、イトウの恋、さようなら、コタツ やさしい猫 彼女に関する十二章 夢見る帝国図書館
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