桃のわたげ
私が働くコーヒースタンドには毎日来るおじいちゃんがいて、
森ジイ
と呼ばれています。
森ジイはいつもエチオピアを店で飲んで、よくお姉さんの分をテイクアウトします。
お姉さんはブラジルが好き。
森ジイは爺なので、通常の半分の量で提供していて、砂糖4g、牛乳8g入れる特製森ジイコーヒーが存在します。
元々踊り子さんの髪を結う仕事をしていたらしく、全盛期の日本を生き抜いた強さというか、江戸っ子のようにチャキチャキ喋るのが森ジイです。
コーヒー完成までの間、
後何分だ。あったかくしろよ。甘くしろよ。
ってうるさくて。
こっちは数字でやってるから必ず安定した温度と甘さで出してますって!

そんな森ジイが怪我をした。
森ジイが来なくなってから2ヶ月があっという間に経ち、元気かなって、考える時間もだいぶ空くようになった。
2月27日。
カランっと扉が開く音がして、向こうに白髪が見えた瞬間「あ!えっ!?」と思わず声が出た。
扉を開けるのを手伝いに駆けつけると
「あ!やっぱり森ジイ!!!」
前より髪が伸びて細くなった首。右手には杖を持っていて左手を差し出してきた。
扉の段差を転ばないように手を掴みながら、ゆっくり越える森ジイがいた。
前より爺になって帰ってきた森ジイ。
何おじいちゃんみたいになってんだよ…
ってちょっとイラついてないと寂しくなって、自分の背中がたちまち小さくなってしまうことを私は知っている。
だから、些細なことを馬鹿みたいに大きな声で笑って、弱っちい自分を吹き飛ばそうとした。
コーヒーを待っている間も静かだし、
飲んでる時は一口ずつむせるし。
痰詰まらせてんぞ。
まるで爺ちゃんじゃないか。
ちょっと寂しくて結構心配だなって考えてたら、常連さんが勢いよく入って来てくれたから
ちょっと落ち着いた。
ほっとして、動揺していた自分に気が付いた。

暫くして帰ろうとする森ジイが、
「あんた家まで着いてきな」
って言ってきた。
随分上から目線じゃないかと思いながら、いつもの森ジイ節が聞けて凄く嬉しくて。
「いーよー」と家まで見送った。

初めて森ジイの家まで行った。
急な坂道を登ってすぐ。多分店から2分くらい。
森ジイと、15分かけて登った。
進む道のりがゆっくり過ぎて戻ってるんじゃないかと変な感覚になりながら、幼稚園を見たり、お姉さんのコーヒーが冷めてないか触ってみたり、たまに車が来て一列になったりした。
ふと視線を落とすと、森ジイはvansを履いていた。
…ヴァンズ履いてる。おしゃれか。
隣から音がする。
ぜぇぜぇガララ
ぜぇせぇガララ
痰絡んでんぞ。

最近、爺ちゃんとか婆ちゃんをじぃっと見てしまう。でもすぐ見てられなくなる。
内側がいっぱいになって苦しくなる。
それで一人、イラついて、悲しくなる。
みんないなくなってしまう。当たり前だ。
当たり前なんだけど、受け入れられてない。
いつも、ちょっと、悲しい。
自分が婆ちゃんになったらどんな気持ちなんだろう。今までできたことができなくて悔しくなったり悲しくなったりするのだろうか。
老いていく人の前ではいつも以上に声を出して笑う自分や、悲しくなったり苦しくなったり。そういう気持ちに耐えられなくなる度に、
あぁ弱い。と思う。

何年も前のこと。
おじいちゃんが死んだ時、私は逃げてしまった。無かったことにした。
ちゃんと悲しまなかった。
そしたら私の何かが死んだ気がする。
知るべきことを知らずに時が経ってしまった気がする。
あの時はきっとそうでもしないと壊れてしまうと、頭が勝手に判断してそうしたんだと、思っていて。だから次、大切な人が亡くなった時、自分は一体どうなってしまうのか。

おじいちゃんが死んでからあまり寝なくなったり食欲が減った母ちゃんは強いと思った。
全身が悲しみながらも生きることの強さは自分にはなかった。
森ジイの伸びた白髪は桃のわたげみたいに
ふわふわしていて柔らかそうだった。
森ジイの写真はまだない。
