【豊橋市戦災復興誌を読む】応急対策2

小序

戦災後の非常配給と防疫体制についてはいかなるものだったのだろうか。
その戦災後の社会をおそった猛威――赤痢の蔓延
軍や市・行政の対応はいかに

非常配給

炊出しは応急食糧獲得の見通しがついた4日後の6月24日までつづけられた。市としてはいつまでも周辺部の町内会の献身的な炊出し援助にばかり頼ってはいられなかった。罹災者に対して或る程度まとまった応急対策を施す必要があった。殆んどの物資が統制されていたので、市当局・防衛本部・警察それに各種統制組合が協議して応急的に生活必要物資の非常配給をおこなうことになった。

豊橋市戦災復興誌 (P74)

市当局レベルで非常配給ができるというのが驚き。それができるのだったら、普段からももう少しできることがあったのではないだろうか。

ここで、主食・副食・衣類・木炭・食器・なべなどの家庭用品の配給の様子が描かれている。

市役所の配給対策

市は、罹災者の数を正確につかみ適正な配給事務を行うことによって罹災者救護の実をあげるべく努力した。6月22日に罹災地区の町内会長を通じて、罹災者に対して罹災署名を交付、市外に転出してゆくものに対しては旅行証書を交付した。6月28日には罹災者に対して米穀通帳ならびに家庭通帳交付の申請を行うよう通達し、1両日でこの事務を完了した。さらに6月28日になって罹災後はじめての町内会長会議を図書館で開いた。空襲後の混乱のままになっていたのを、秩序を立て、応急処置の徹底を期そうとするものであった。
それはまず第1に焼跡に残留している者の数を正確につかむこと、それによって救急品や日用品の配給の適正化をはかることに主眼がむけられた。第2に不衛生な環境からおこる伝染病の予防対策を指示した。それは市内に3か所の医院が開設されて一般診療に当るほか、豊橋病院も治療にあたることになっている旨を連絡し、その利用を促した。
第3には戦災地に残留して敢闘したものの数を調査すると共に、町内会長に対してはあくまで残留して陣頭指揮を要望、そのために資材を優先的に配給することをつたえた。これは町内会組織の混乱と破壊が罹災後の処理に支障を来すことをまぬがれんとする意図であった。
第4に消失地区の整理、金属回収の実施についてである。焼失地はまだ殆んど整理されておらず、その日の生活に必要と思われるものを拾い集められた程度になっている。そこでこれを一定期限を定めて、その期間内に金属類の回収を行い、市役所としては7月1日から7月12日の間にその供出を受け付け、それ以後は権利を放棄したものとみなして処理する、但し県商工課からの別途の指示があるまでに工場等の機械設備は除外する。所有者は現場で機械設備であるという標示(氏名、設備名、市役所報告済)をすることを通達した。その他、水道の通水時間の制限、新聞・郵便物の配達は町内会単位に行うこと、従来行われてきた戦歿軍人・軍属の死葬執行は一時取止めに、また遺骨出迎えは組単位の小規模なものにすること等も伝えられた。

豊橋市戦災復興誌  (P77-78)

町内会を中心として、行政機構の回復を試みたことがわかる。ただ、それほど全体主義的とは感じられず、くらしの再興に力がそそがれているようには感じられる。

防疫

戦時防疫体制

伝染病は戦災につきものといわれたが、豊橋もその例外であり得なかった。罹災後、いち早く焼土にバラックを建たた人も、防空壕住いの罹災者もみな食糧不足による栄養不足や体力の消耗、それに精神的打撃も甚だしかった。それに加えて廃墟となった焼跡の衛生環境は極度に悪化していた。便所は露天掘りであり、汚水処理は全然なされ得ず、臭気は焦土に満ちみちていた。上水道は各所が破壊されていたので、復旧・修理のため通水時間の制限もあって、水の使用も不便であった。入浴するにも風呂屋はなし、さりとて家庭の風呂もなしという状態であった。豊橋警察署は入浴に関して、戦災地に共同風呂を設置する場合は警察の許可を必要としないという応急的な指示をした。このために焼け残ったものを利用した風呂があちこちにつくられたが、この面でも不衛生な環境が醸成されていた。加えて梅雨期であったため、伝染病発生の危惧が大いに感ぜられていた。
市はさきに空襲災害時に備えて「伝染病患者収容施設計画」および「豊橋市防疫隊組織要項」を策定して万全の施策を講じていた。しかし、このような大規模な戦災に対しては、既定の計画によることは到底できず、新たな応急対策が必要となった。
市は直ちにその防疫対策を協議した。そして6月28日には罹災町内会長会議を開いて、特に保健衛生に注意するよう細部の指示をなし、併せて市内に焼け残った9か所の医院と豊橋病院で一般診療を行う旨を伝え、早朝受診を呼び掛けた。
翌6月29日、新川国民学校に収容されていた罹災者中に突如として赤痢患者が発生した。そしてたちまちのうちに新川校区の随所に伝染蔓延し、ついに恐るべき事態に陥った。市はあらゆる努力をして、これを撲滅しなければならなくなった。発生当初の患者は三ノ輪の伝染病隔離病院に隔離したが、次々に発生する患者で収容しきれなくなった。やむを得ず豊橋病院に収容したが、とても収容しきれず、ものすごい勢いで患者が発生していった。市はほかに適当な施設がないので、新川国民学校々区に患者が集中していたので、万策尽きて学校側に交渉してこれを収容施設にあてようとした。学校側は勿論反対したが、事後の消毒を万全におこなうということで交渉ができ、臨時新川病院として患者を収容し治療に当った。(中略)
軍から応援を得ることになって、市役所に「戦時防疫対策本部」を設け、第100部隊と怒部隊から軍医各1人、市の吏員1人で構成し、本部長に宮本軍医少佐を得て活動をはじめた。

豊橋市戦災復興誌 (P78-79)

伝染病の発生について述べられる。市は伝染病の発生に対して計画・要項を策定して万全の施策を講じていたとするが、罹災町内会長会議の開催翌日に赤痢患者が発生すると、あっという間に広まったとなっている。結局学校を臨時病院として対応し、軍からも応援を頼むことで対応したことになっている。この軍からの応援は、陸軍出身の水野市長の要請によるものとなっているので、災害直後にも市長が直接要請すればもっと効果的に防消火ができたのではないだろうか。

防疫活動

防疫活動は次のように行われた。豊橋医師会が検病戸口調査班を、市の保健課吏員が消毒班を編成し、軍から将校2人、下士官10人、兵数10人が出てトラックを以って患者の収容に当った。(中略)しかし治療は完璧には施し得なかった。そのため患者発生総数1459人のうち死亡者は367人もの多数を出した。

豊橋市戦災復興誌 (P79)

戦災の死者数には及ばないが、重軽傷者数よりも多数の赤痢による死者を出したことになる。これはやはり事前の準備がよくできていなかったことによるのではないだろうか。自前の上水道システムをもっていた豊橋でこれほどまでに赤痢が広がったというのが解し難くはあるが、戦災の後ではいかんともし難かったか。

応急対策費

応急対策の費用は市が47万円弱を繰替支弁の方法で、後に県からの公布を経て戻し入れされたという。前に市民が身銭を切って炊き出しをしたと書いてしまったが、炊出し費用はここに計上されているので、身銭を切ったわけではなさそう。

小結

応急対策については軍の協力もあり、赤痢の拡大をのぞけば比較的穏当に推移したようにも見える。費用の支弁もかなりが公費でなされ、戦災者に対して交付金も支出され、経済的にはかなりの被災者支援がなされたようにも見える。
市長や軍のうごきにはまだ疑念を解くことはできないが、行政自体としては比較的よくやっているようにも感じられる。全国的な翼賛体制は政治面に限られ、行政面では比較的に自治が作用していたとも考えられるのかもしれない。
非常配給の在り方を見ても、むしろ戦災があった方が自治的に行政が機能できたという側面すらも感じられる。このあたり、軍と内務省の管轄の違いというのも考慮に入れる必要がありそうだ。内務省は少なくとも軍にくらべればそれほど集権的ではなかったと考えられるのではないだろうか。
町内会はその世話人が大政翼賛会の推薦が必要となっているが、それ自体は大政翼賛会の成立以前から存在し、分権的官僚組織であった内務省の傘下にあったといえる。だから、戦災のような非常事態にはその分権的性質が発揮されてうまく機能したのではないだろうか。
かくも戦災は多面的分析が必要なのだろう。

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