国政におけるファッショ運動の展開
昨日と順序が逆になってしまいました。この記事が昨日のファッショ運動の前に来ます。
ここでは、翼賛政治がどのように展開していったかを見てゆきたい。
本書では日本のファッショ運動が初めて芽生えたのは、大正八年に北一輝と大川周明が猶存社を組織し、北一輝が運動の経典として『日本改造法案大綱』を書いた時だとしている。それは、前年のコメ騒動を経てソヴィエト連邦の共産革命に対するシベリア出兵の動きを挟んで第一次世界大戦が休戦に至り、その後の大恐慌の足音が聞こえ始め、社会が不安定化してきた時期だといえる。その運動が思想運動から実行運動に発展したのは、大正が昭和となり、恐慌を契機として国民生活が混乱し、その混乱に乗じて共産主義の活動が活発になったときであったとされる。つまり、日本の国家改造運動は、活発化した共産主義運動が、天皇を頂点とする日本の国家体制を危機に陥れた時、天皇制のためにその危機を救う運動として現実化したのであるという。
ここで興味深いのは、共産主義が過激化し、革命志向を持つようになって、その危機から天皇制を救うための運動としてファッショ運動がおこったという解釈がなされているということだ。しかし、いずれにしてもそれは観念的な話であり、日本の共産主義が全体として革命志向を持っていたかと問われれば、上の方はともかくとして、地域に密着した部分ではそのような過激な志向性はあまりなかったのではないかと感じられる。それが、シベリア出兵にせよ、共産主義が展開された中国に対する日華事変にせよ、それらがある程度の正当性をもって支持されたということを意味するところなのではないだろうか。つまり、民衆全体として、国体に対する不満よりも、対外的な共産主義の波に対する脅威の方が大きく認識されていたのではないだろうか。それを、共産主義-革命とひとくくりにすることで、そこからあふれた人たちを全体主義になかに組み込んだというのが戦間戦中のファッショ運動ではなかったかと考えられる。
共産主義というグローバルの流れが基底にある以上、危機の背景も世界的にならざるを得ない。大正末期から昭和初期にかけて急激に発展した中国革命は、清という非漢人政権の後に国家統一を掲げ、満州という非漢人地域すらも統一しようという動きを見せ、それが日本の利害と鋭く対立した。そして、上に述べた通り、ソヴィエト連邦の動きも、日本の共産主義に対する大きな刺激となったといえる。
国家改造運動の実践は、昭和六年三月、陸軍が宇垣一成を擁立してクーデターを起こそうとした三月事件によって火ぶたが切られ、同じく未遂に終わった十月事件に発展した。ファッショ勢力の国家改造運動は、国民生活の不安と共産主義運動の強化による国家体制(天皇制)の危機を政党政治に表現された政党と財閥、大地主の責任に帰したという。国民生活の不安が、直接的に共産主義運動、とりわけ革命運動につながるかといったらそんなことはなさそうだ。それは、天皇制に基づく全国的な地租の負担というものが比較的に歴史の浅いものではないかと考えられるからだ。そして本書でも繰り返し描かれるように地租というのは、工業化へのステップに過ぎず、地租の負担よりも、工業化・産業化に基づいて巨大化する大地主、資本家への不満の方が多かったと考えられる。だから、それは米騒動のような実際的な不満爆発に結び付いても、天皇制反対という声には直接には結びつかなかったのだと考えられる。
それを考えると、ファッショ運動が、反共産主義を掲げて天皇を擁立しようとすること自体が、かえって反天皇制の感覚につながりかねないという、ねじれた関係があったのだといえそうだ。それは、国際的な共産主義の動きが利用しようとしていたものでもありそうで、つまり、民衆の不満を国家元首、とりわけ世襲的なそれにぶつけることで国体の転覆をはかり、それによって国家の乗っ取りをおこなおうとする、まさに下克上的な世界観が国際レベルで展開されていたことを示しているのではないだろうか。
ここで、社会の基礎構造における不満と、上層部における天皇制を軸とした政治的主導権争いというのは直接的にはつながっていなかったという構図が見て取れる。そして、それ故に日本では革命のような動きは成立しがたかったのだといえる。そのような国においては、本来的には、地方において基礎構造における不満を吸い上げる機能が強化されることが必要であり、それは、共産主義にしろ、ファッショ運動にしろ、国政レベルで政治的主導権争いを繰り広げるような組織を通じてはなかなか具現化されえないものだったのではないかと考えられる。
さて、この全国的な動きと、地域の動きがどのようにつながるかであるが、
ヤリ玉にあげられた政党と財閥は、何らかの転換をおこなわなければ旧来の支配を続けてゆくことが困難となった。その転換の急先鋒を承ったのが民政党の最右翼を形成した安達謙藏-施策を担当する若槻(礼次郎)内閣の内務大臣であったが、十一月二十一日、声明を発して「超党派的愛国心により政党の協力を基礎とする国民内閣」を提唱し、国家改造運動を政党のヘゲモニー下におこうとする運動を開始したのである。彼は、自己の民政党内によびかけると同時に反対党の政友会にも呼びかけた。政友会の幹事長で久原財閥の当主である久原房之介は、十一月中は安達謙藏の提唱に即応する態度を見せなかったが、十二月に入るとともに態度を積極化し、十二月九日、民政党顧問の富田幸次郎とのあいだに協力内閣樹立の協定をむすんだ。しかし、ともに党の全面的支持は得られず、十二月十三日、安達謙藏は富田幸次郎や中野正剛とともに脱党、すぐにファッショ的新党の樹立に向かった。そして豊橋のファッショ運動もまたその新党運動とともに開始されるのである。
国政において何らかの転換をおこなわなければ主導権を握れなくなったから、と言って地方の不満を「超党派的愛国心により政党の協力を基礎とする国民内閣」などといって糾合しようとしても、それはかなり無理な権力闘争に地方を巻き込むことになるにすぎないだろう。中央における政治運動に地方を巻き込むのではなく、地方の声をきちんと吸い上げるという仕組みがより求められていたのではないだろうか。
そして、ここで国政の動きと地方の動きを、新党設立によって結び付けようとしているが、豊橋には同志派と実業派に関する別途の動きがあり、それを簡単にファッショ新党と結び付けるというのは危険だろう。中央の事情と地方の事情というのは異なったものであるという認識が必要になるのではないだろうか。
いいなと思ったら応援しよう!
誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。