新しい自治体
旧市政の解体
市民が自力での生活の擁護にかけまわり、市政が復興の対策に腐心しているとき、中央では地方の政治を根底からくつがえす大きな嵐が吹きはじめていた。
戦前の日本で地方自治の元締をしていたのは内務省であった。内務省は、地方自治に対する強固な監督権で地方自治を名ばかりのものにしていたが、その内務省こそ、軍閥・財閥とともに戦争に責任を持つ三大勢力の一たる官僚の牙城であった。(中略)
敗戦で軍隊は解体され、軍閥は政治勢力たることから放逐されたが、官僚は生存をつづけていた。しかし、日本を民主化するためには、官僚の牙城である内務省への手入れが必要であった。昭和二十年十月四日、総司令部はまず特高の一斉罷免を指令した。特高とは特別高等警察の略称、国策遂行のために治安維持法を楯として言論・思想・行動を取締ってきた本山だが、総司令部は特高こそ昭和暗黒史をつくった思想警察の元凶とにらんだのである。牙城内務省の一角はくずされた。しかも、攻撃は手を緩めずに続けられた。その翌日には山崎巌内相をはじめとする内務官僚の罷免・治安維持法の廃止・政治犯の即時釈放などがあわせて指令された。内務省は事実上その機能の大半を失った。
しかし、内務省をもっとはげしくゆすぶったのは公職追放の旋風であった。昭和二十一年一月四日軍国主義者の公職追放が総司令部から指令され、その結果一〇六七名の中央官僚が公職から追放された。そのうち三分の一にあたる三四〇名は内務官僚であった。追放の第二波は中央から地方に吹き荒れた。
昭和二十一年十一月七日、地方公職に対する追放覚書が発表され、全国およそ一〇万の市町村長および助役が追放されたが、二十四年三月二十日までにはさらに七九二〇名が地方政治の表面から姿を消していった。豊橋市にものその嵐は吹いて、大政翼賛会の推薦議員であった大口喜六や近藤寿市郎の追放は中央から指定されたが、あわせておよそ三五〇名の人たちが公職から追われた。いずれも在郷軍人・右翼団体・大政翼賛会にかかわっていた人たちである。終戦前、市政に大きな力を占めていた(中略)人たちの地方政界からの消滅は、その力が大きかっただけに大きな変化を豊橋市政のうえにもたらした。
追放の嵐は、地方政治の古いワクを破る大きな力となった。戦争末期の昭和二十年五月六日に豊橋市長となった元陸軍少将水野保は、職業軍人として当然に追放となることを自覚していた。彼は市政最後の仕事として、焼け出された市民や児童のために市内の旧軍施設の一時使用の申請に努力をかたむけた。元陸軍予備士官学校、元師団長官舎、元歩兵第十八連隊、元工兵第三連隊から射撃場にいたるまでの十数か所の一時使用の申請をおえた彼は、昭和二十一年一月五日、正式に辞表を提出した。そしてその月の二十九日に市政から去った。
内務省は巨大省庁なのでトップがおかしな方向へ行くと全体的におかしな方向へ向かわざるを得ないという宿命を持っていたのだといえそう。印象としては、明治時代くらいまでは、地方自治を引っ張るリーダー役としてそれなりの矜持をもっていたとも言えそうだが、大正時代に民主主義の概念が広がるとともに、その中での自分たちの在り方というものを見つけられなくなって強権的になっていったというようにみえる。
一〇万の市町村長および助役というのはちょっと誇張ないしは印刷ミスなのではないかと感じるが、近藤寿市郎が入っているということは市町村長および助役の経験者を含んで、ということなのかもしれない。そうだとしたらそこに含まれるのかはわからないが、水野保が含まれていないように書かれているのは少し納得がいかない。旧軍施設の一時使用の申請に心を傾けた、といっても、例えば元師団長官舎などというのは、第十五師団がいなくなった時点で当然市に返還されていてしかるべきものであり、その一時使用の権利をわざわざ申請しないといけないというのは水野が軍の存在感を残すために一芝居打ったのではないかと考えられる。そしてそれは現在の豊橋の土地問題にまで大きな重しとなって残っているといえるのではないだろうか。つまり、本来的には一時使用の対象でもなんでもなかった場所を、水野が一時使用として申請したがゆえに、その後の土地利用が大きく制限されたのではないかと考えられる。
市政革新の動き
水野市長がやめたとき、内務省は二十一年三月一日までに後任市長を推せんするように豊橋市に命令した。市会は二月五日に全員協議会を開いて協議した。しかし、その日、市政に関心を持つ社会党員一八〇名が結成した豊橋市政革新連盟準備会は、公会堂で市政糾弾市民大会を開き、次の決議を採択して市会議長の下に提出した。
一、現市会に後任市長の推せん資格なし。
二、市長は手腕力量ある青年市長をえらべ。
三、市長は市民の総意によって選挙せよ。
(中略)しかし運動は功を奏さず二十一年三月二十九日、市会の選考委員が推せんした県会議員横田忍が市長に就任した。(中略)
昭和二十一年九月十五日、社会党豊橋支部は新川小学校の行動に三合配給要望市民大会をひらき、生存するために必要な主食三合の配給を要求した。(中略)
そのような市民のうごきは市政革新の力をさらにつよめた。豊橋市政革新連盟準備会は、昭和二十二年三月十四日、市公会堂で正式の結成式をあげ(中略)た。連盟(中略)は、つぎのようなスローガンをかかげて地方選挙にのぞむことを決定した。
一、市政の利権屋を一掃せよ。
二、現市長、市会議員は退陣せよ。
三、自進両党を市会から叩き出せ。
保守陣営は対抗策を講じなければならなかった。三月三十日、中立派市議十六名が中心となり、市公会堂で豊橋市建設促進同盟の結成式をあげた。(中略)こうして保守陣営もまた新たな体制で地方選挙にのぞむこととなるが、四月選挙とよばれたこの地方選挙こそは、新らしい自治体をつくるための改革案にもとずいておこなわれたものであり、試練であった。
戦前政治へのぶり返しとして、革新がもとめられたということもあるのかもしれないが、革新勢力は残念なことに地方文脈を重視するということが、その性質上できにくい、ということが問題だったのではないか。だから、現実的政策よりも、体制変革であったり利権打破であったりという抽象的な変革を訴えるということになりがちなのではないか。確かに身近な主食三合というのは政策ではあるが、それは戦後二回目の秋を迎える直前として、ほぼどの政党が主張しても実現できるというよりも自然に実現するとみられるような、いわば小さな政策であるといえ、そんなことを柱に据えるということ自体、無力さをさらけ出しているとも言えたのではないだろうか。
そして大きな政策は、復興計画に織り込まれてしまっているといえ、そこに対する何らかの足掛かりを得ないとまともに政策議論ができず、ただ体制変革を訴えるしかなくなってしまうという革新の致命的な欠点を、その最初時点から抱え込んでいたのだといえそう。
いいなと思ったら応援しよう!
誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。