ファッショ運動
豊橋出身の代議士杉浦武雄と鈴木正吾も、安達謙藏や中野正剛とともに民政党を脱党した。民政党は、豊橋においては、同志派、実業派どちらにも属さない中立派がつくった更新会によってなっており、その中には豊橋市制の導入自体に反対を主張した人々も含まれていたと考えられる。そのように、国政とは関係なく、新党をつくって地方の声を届けようという立場の人がおそらくいろんな地方で多くおり、それらを糾合したのが安達謙藏や中野正剛であるといえるのではないだろうか。
では、鈴木正吾が何を言っていたかを見てみたい。
「日本の現状は明治維新、幕末史の再現である。・・・日本に革命が予想されているが、すでに日本は革命時代である。」
ここは、革命に視点を当てるのではなく、明治維新、幕末史が今現在つくられているのだ、ということを言いたかったのではないだろうか。
「私のとなえる社会主義は・・・日本の皇室を中心に、日本の国民大衆の利益のために政治をするという日本独特の社会主義で、私どもはこれを名づけて国家社会主義といっている。現在日本の行きづまりは個人主義、私の利益第一主義の結果がうんだものであるから、これを打開するには個人主義ではいけない。社会主義でなければならぬ。・・・大資本の独裁支配となった今日、名誉も権力も富もことごとくが三井、三菱の二大財閥に集まっている。半面、国民大衆は日に日に苦しみの泥沼にはいり、革命の時代というときになった。国家は非常時である。国家非常時には、非常の対策がなければならぬ。」
三井・三菱に集まっているというのは、非藩閥系文脈を三井が、藩閥系文脈を三菱が、それぞれまとめることで集約されているということを意味しているのではないだろうか。そして、革命というからには何らかの敵を見出さざるを得なくなり、財閥に焦点を当てたということではないか。
「明治維新の革命は、兵馬の大権と政治の大権を天皇に奉還した。しかし、大切な経済の大権を天皇に奉還しなかった。問題はこの経済大権を天皇に奉還するということ。この実現が昭和維新革命の指導精神でなければならぬ。ここに皇室を中心とする日本革命の特殊性がある。日本の革命は、常に諸外国のそれとは反対に。皇室を中心におこなわれた。日本でおこなう革命は日本国家社会主義でなければならぬ。」
理屈はとても分かりやすいが、やはりこの話の筋だとファッショであると解釈されても仕方がないのだろう。中央集権体制をつくるのに、共産革命とファッショ社会主義とどちらが良いのか、という問いの立て方自体に問題があるのではないだろうか。私は分権体制の自立政治経済システムが望ましいのではないかと感じる。
「日本にこの国家社会主義を実現するためには、資本主義そのものとともに、その資本主義をまもる忠実な暴力団である既成政党をほうむるべく、ここに堅実な帝国第三党を必要とするのである。そうして近く創立される第三党は、もちろん議会内の斗争も大切であるが、議会外大衆のファッショ精神を重要視する。第三党の精神は
一、資本主義を否定して国家の経済統制による国家社会主義の実現
一、領土経済の自由(満蒙を日本の経済ブロックの中に入れる)
一、党費の公開
などである。」
ここに自ら完全にファッショを宣言してしまっているので、ファシズムであると認定せざるを得ないのだが、大衆のファッショ精神ということで、上からのファシズムではなく、自発的なファシズムというユニークな立場をとっていることには注目したい。彼は、豊橋正吾会を結成した。
一方、杉浦武雄は、豊橋民政青年団を拠点としたが、その名を東三新興青年党とあらため、東三一円を国家改造計画の中に巻き込もうと図った。その基本綱領は
「我党は我国家国民の社会生活を確保し、その向上を期するためには、資本主義をもってしては之を成し得ざる事を信じ、国家社会主義的政治大権及び同経済組織の確立を期す。」
資本主義ではない国家社会主義的な経済組織というのが一体何を指すのか、これだけでははっきりしない。
建設綱領として、
一、社会経済の円満なる発達と向上を期するため、重要産業生産手段を国有とし、その他の生産は国家権力の統制により一個人の不当な利潤の搾取を排す。
二、国民の居住権及び耕作権を確保するため土地制度の改革。
三、都市建設を志向してゐるやうに農漁山村に農民計画法を施行して、近代文化の国民的均霑を要求す。
四、金利を引き下げて搾取と富の個人的無限の蓄積を排す。
五、国家国民の経済的繁栄と平和を維持するため国防の充実に努力す。
ここでは、生産手段の国有が述べられており、国家統制までは主張しているとはいえ鈴木正吾の下からのファッショとは違いを見せる。生産を国家権力の統制によることとすることが、結局は生糸の配給制にも至っていったのではないかと考えられるので、このような代議士が地域を代表していたということ自体、自分で自分の首を絞めたといっても過言ではないのかもしれない。
この後、民政党の地方支部を衣替えさせて豊橋公民会をつくったという。民政党の地方支部自体が更新会から生まれたものだと考えられるので、やはり豊橋市制の問題をてこにして衣替えをさせたのではないかと考えられる。その証拠に、豊橋に独自の歴史観を埋め込んだともいえる丸地幸之助がいったん豊橋公民会に参加しながらのちに民政党に復帰しているということがある。それは歴史観が合わなかったから、という説明もできるのだろう。
これに対して、河合陸郎が主筆を務めていた『新朝報』の論説は次のように公民会の国家改造運動を批判した。
「こうしたやからに市政の刷新がおこなはれるものとかんがへている人は、まず第一に手をあげてもらひたい。そして中央集権を基礎理論とする国家社会主義が自治の活発な運用にどんなにおほきな障害物であるかをかんがへて見るがいい。中央集権と自治制の発達とを車の両輪のやうにかんがへている人に、豊橋市政が刷新されたら、どんな結果をまねくか、かんがへてもぞっとする。」
地方のメディアがこれくらいの批判ができていたころはまだまともだったのだろう。その段階で何とかファッショを止められなかったのが大きな問題なのだろう。
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