地方自治法
地方自治法に関する部分は、地方自治をどのように解釈したらよいかを示す部分なので、すべてを引用することとした。
町内会と隣組の廃止は、戦時体制の名残りを一掃した改革であったが、その前提にたって地方政治に画期的な改革をもたらしたのは、新憲法が施行された昭和二十二年五月三日に新憲法とともに民主化の両翼をなすものとして施行された地方自治法の制定であった。地方自治法も新憲法と同様にアメリカの指導下につくられ。憲法第九十二条以下の四カ条を母体としながら第九十二条にいう「地方自治の本旨」を具体化したものであるが、あるアメリカの学者がいったように、「アメリカ人は、日本人の生活のなかでもいちばん深く地方制度にアメリカ式の政治形態をあたえようとした」のである。
戦前の内務省主導による地方自治がうまく運ばなかったというのはその通りであるとみられるが、「アメリカ人は、日本人の生活のなかでもいちばん深く地方制度にアメリカ式の政治形態をあたえようとした」とまで言われるほどのことだったのか、というのは考える必要がありそう。首長を公選にするというのはポジティブな成果だといえるが、町内会と隣組の廃止は、すでに見た通りネガティブな影響があったのではないかと考えられ、それ故に講和条約後に自治組織として再度編成されなおしたのだといえる。つまり、アメリカ式の政治形態をあたえようとしたが、それは結局日本の伝統的な自治制度のなかにはなじまなかったというべきではないだろうか。
自治制度の第二次改革案
地方自治法に集約された地方自治制度の改革は、現実には二つの過程を経ておこなわれた。さきの「第一次改革案」の結果、知事・市長などの地方首長の公選権、選挙管理委員会制度、住民権、直接請求権などのあたらしい自主的権利がみとめられたが、しかし、そのように割期的に見える改正も、一面からみると過渡的な性格から抜けきってはいなかった。県知事は官吏であった。だから、ふたたび官治的中央集権に逆もどりするおそれがあった。それは、当時の大村内相すらみとめたところであり、第一次改正が消極的改革といわれるわけもそこにあった。政府は、第一次改革案がまだ貴族院を通過しない昭和二十一年九月十日、第二次地方制度改正試案をはやくも発表した。そこで、第一の過程は第二の過程にうつる。
第二の過程をつくる第二次改革は、新憲法の基本的原理に立脚して徹底した地方分権を実現するため、あたらしい地方団体法規の制定をめざしたが、それが地方自治法に結実する。地方自治法は、第一条にいう「地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保証することを目的」として全文三〇四条、附則二一条。そこではじめて日本にその名に値する地方自治がうまれ、旧来の四つの自治法は洗い去られた。総司令部は「日本人が自分たちの地方自治に参与できる権利を確立した日本行政史上はじめてのできごとだ。」と揚言した。
大正末期にかけて、選挙制度では普通選挙が導入され、少しずつ民主化の方向には進んでいた。地方自治はそのあとに、あるいは本来的には先立って展開すべきものであったが、それが国民国家の成立過程と重なったがゆえに、地方独自の文脈をうまくその中に埋め込むことができずに昭和の全体主義の大波をかぶることになった。つまり、国民国家と全体主義は不可分の関係にあったとも言えそうで、民族自決の原理が全体主義を作り出したのだともいえるのではないだろうか。それは、国民国家の形成過程において、西洋においてすらも国民概念の形成とともに全体主義化するという、いわば避けられない経路であったのだといえるのではないだろうか。
そして時期的に見れば、それは、まさにアメリカがFDRの下で全体主義化する過程と重なっているわけで、日本の地方自治がうまく整備されなかった理由として、アメリカという国自体が全体主義化したがゆえに、分権化するというロジックを現代化過程に組み込むことができなかったのだといえる。アメリカは、ウィルソンが民族自決を提唱しながら、みずからはいわば人造的なアメリカ人を作り出すことによって、いわゆる単一民族による国民国家という体制はえらばなかった。それ故にFDR的な人造国家の全体主義という、数ある全体主義のなかでも最も質が悪いともいえそうな国家体制を形成し、それによって戦争に勝ち抜いたのだといえそう。
その意味では、そのアメリカによって主導された地方自治法は、もっと地方の観点を取り込んで再編成される必要があるのだといえそう。全体主義さえなければ、町内会や隣組というのは地方の基盤となるべきもので、それ自体非難されるべきものではなかったのだろう。町内会や隣組は、地方の側からみれば、隣近所の団結を強めることによって、全体主義的というよりも、むしろ全体主義に対する防波堤としての機能を果たしていたといえるのではないだろうか。
「日本人が自分たちの地方自治に参与できる権利を確立した日本行政史上はじめてのできごとだ。」というのは確かにその通りかもしれないが、日本では地方自治への参与権は、投票による参加というよりもむしろ、町内会や隣組に代表される、草の根自治で参加してきたともいえ、それは間接民主制と直接民主制でやり方が違っているだけで、その優劣はなかなかつけづらく、私は個人的には直接民主制的なあり方の方が望ましいのではないかと感じている。戦前にそれがうまく機能しなかったのは、地方レベルにおける直接民主的自治のうえに、上からの全体主義がのしかかってきて、そちらが大政翼賛会によって政治的に優位に立ったからだといえそうだ。
内務省の解体
新憲法と地方自治法が地方自治体に完全な自治をみとめ、県も市も住民自身の直接選挙によってみずからの首長をえらぶ権利が住民ににぎられたとき、内務省は最大にして最後の打撃を受けた。いわば死命を制されたのである。
昭和二十二年十二月八日、新憲法にもとずいて内務省廃止法案が国会を通過した。七五年にわたる中央集権は終極的に打破された。年の暮もせまった十二月二十七日、内務省の解体式がおこなわれた。地方自治体は民主化の脚光を浴びて新しい時代のなかに生れでたのである。そうして、豊橋市もまた、みずからの意志によって民主化の線を歩むのである。
内務省というのはどちらかといえば軍閥に対する最後の防波堤という位置づけもできるのではないかと考えられ、過度に全体主義に対する批判を受けすぎているようには感じる。大政翼賛会は政治的に成立したものであり、内務省が主導したものではない。大政翼賛会成立前に内務省のつくった町内会や隣組の制度は、政治的に全体主義化する中央に対して、地域の足場となることを意図したものであったかもしれない。それを内務省の全体主義的傾向の表れだとみることが間違いなのではないだろうか。いずれにしても、全体主義とはいったいどのような動きだったのか、ということは、より詳細に見る必要があるのではないだろうか。
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