大政翼賛会豊橋支部と国政の動き

大政翼賛会が成立したことで、政治団体解消への動きが加速した。実業団体が昭和15年10月20日に、そして同志団体が10月26日にそれぞれ解散し、実業・同志が豊橋の政界を二分してきた40年の歴史は幕を閉じた。

同志・実業対十六人組の抗争は12月になってから大口市長が辞表を実業派の近藤寿市郎助役に提出することで、同志派が実業派に道を譲るという形で決着したのだといえるのかもしれない。近藤寿市郎が市の始まりをどのように定義するのか、ということを決めるよう迫られたのだといえるのかもしれないが、文献上は『渥美郡史』によって明治39年に豊橋市制が施行されたと明記されてしまっているので、それに従うしかなかったのかもしれず、それ以外のところでどれだけバランスを保てるか、ということの手綱さばきが求められたのかもしれない。

一方で、後任市長の選任はなかなか軌道に乗らなかった。実同両派と十六人組のあいだだけでなく、旧実業派と旧同志派が連立を捨てて新市長の椅子を争ったため、三すくみの状態となり、4か月が経過したという。明けて昭和16年、3月になってようやく実同両派の推す近藤寿市郎助役の昇格と、新体制派十六人組の推す可知義兵太との二案にまとまり、さらに可知義兵太が「決選投票のような事態が新体制下において発生すれば、市の面目を失し、将来に禍根を残し、市制の混乱は必然的で、市制の前途は寒心にたえない。」との声明を発表し辞退した。そこで十六人組も近藤寿市郎の昇格を認め、五か月ぶりに市長が決まったという。

民主主義の観点からすると、選挙を避けて市政混乱を回避するというのは、いわば憲政の常道から外れているようにも見受けられ、このような状態は、民主主義の限界を指し示していたのだとも言えそう。一方で、多数決ではなく話し合いによって代表者を定めるというのは民主的であるともいえ、その意味で、大口喜六の在り方のように国政まで巻き込んだ代表者選定というのは、民主的解決にたえない、規模の大きすぎる組織なのだといえ、当時では市という単位が話し合いで代表を決めることができる最大の規模であったと考えることができるのかもしれない。実際その上の県という規模になると、知事は官選で選ばれており、そこには民主的手続きの影も形もないのだから、やはり民主主義というものには、話し合いで解決の道を探ることができる適正な規模というものがあるのではないだろうか。

この市長空白のあいだに、豊橋における大政翼賛会の組織の形成がなされた。昭和15年11月2日に、大口喜六の最後っ屁のような形で、市長大口喜六、商工会議所会頭河合藤四郎、町総代会会長佐藤弥平、市会議長大竹藤知、市政記者団が発起人となって、大政翼賛運動豊橋即応会が結成された。16年2月末には13人の常務委員が決定し、翼賛会支部を結成する体制を樹立した。かくて一切の準備を終えた4月21日、それは近藤寿市郎が市長となってわずか4日後のことであったが、即応会は翼賛会豊橋支部へと発展的解消を遂げた。

本書のなかから、大政翼賛会についてその形成経緯をまとめている部分を抜粋したい。当時の総理大臣近衛文麿の立場が見られ、大変興味深い。また、最後には地方とのかかわりも述べられ、その影響がどのようなものであったかを想起させる。

大政翼賛会を中央で組織したときの首相近衛文麿は、翼賛会を政治結社の性格をもった国民組織とするつもりでいた。ところが、そのような近衛の意図には、いろいろな方面から攻撃が加えられた。まず右翼のファッショ勢力から攻撃の火の手があげられた。ファッショ勢力の目的は政党・財閥の支配をくつがえして天皇親政を日本に実現することにあった。彼らの目にあるのは天皇だけであり、天皇即国家であり、一国一人であった。そのような目から翼賛会を政治結社としようとする近衛の意図をみれば、近衛は一国一人ではなく一国一党をめざしているかにおもわれた。そこで彼らは近衛の意図に反対した。近衛は攻勢の前に屈し、翼賛会の発会式では「大政翼賛の臣道実践・職域奉公という一語につきる。これ以外の綱領も宣言もいらぬ。」と演説した。具体的な綱領も宣言ももたない政治結社というものはないのだから、発会式のとき、近衛は早くもみずから大政翼賛会が政治結社たることを否定してしまったのである。
ぐらついた近衛に追い討をかけたのは官僚勢力であった。官僚勢力は平沼騏一郎を代表として近衛内閣に送りこんでいたが、彼らは大政翼賛会を政治結社にしたくなかった。なぜなら、翼賛会を政治結社としてみとめることは、官僚勢力にたいする国民の対立勢力をみとめることであり、国民を一方的に上から支配しようとする官僚政治の否定にみちびくから。そこで官僚勢力は、翼賛会から政治結社たる性格を追放し、翼賛会を治安警察法でいう公事結社にしようと画策した。画策は成功した。昭和十六年二月、平沼内閣は議会で声明した。「大政翼賛会は、治安警察法第一条の政治結社に該当するがごとき政治活動をなすべきものにあらず、もし政治結社に該当するがごとき政治活動をなしたる場合においては、政府は厳重にこれにたいして取締をなす意向である。」かくて大政翼賛会に対する近衛の意図は終極的に否定され、翼賛会は官僚統制の一機関に顚落していったのである。
すでに官僚統制の一機関であったから、翼賛会が国民の自主的組織であることは許されなかった。市町村の支部長は、一率に市長村長が任命された。つまり、翼賛会は、支部長たる市町村長をとおして官僚の政策-上意を下達しようとしたのである。たてまえは上意下達・下情上通であったが、上意は下情をほとんど問題にしなかった。

豊橋市政五十年史 (P270-271)

近衛はその国民的人気を利用されて、大政翼賛会設立のために担がれそうになっただけで、意図してそのような統制機関をつくろうとしていたわけではないことが述べられる。むしろ、

近衛首相は、総動員法が成立した1938年3月頃から辞意を周囲に漏らすようになる。西園寺元老らの慰留によって、5月に内閣改造、一旦は留任となるが、9月頃から政党合同運動がまた盛り返し、近衛首相が新政党の党首に擬せられるようになると、近衛首相はこの動きに嫌気がさし、12月末に突如として辞任。

Wikipedia|第一次近衛内閣

として、全体主義、総動員法に嫌気がさして政権を投げ出したとみられる。しかし、事態がここまで進展してしまうともはや止めようがなかったとも考えられる。

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