ファッショ運動の台頭

既存勢力とファッショ勢力の最初の対決は、昭和七年十月の市会議員選挙をめぐって行われた。それは隣接市町村合併後の最初の市会議員選挙であった。その結果は同志13、実業8、公民8、民政3、中立2となった。公民会と正吾会は選挙直前の10月7日に中央で新党樹立の計画を進める安達謙藏や中野正剛をむかえ、方や東雲座、方や豊橋劇場という二大劇場で同時に大演説会を開いたという。これは、感覚的には公民会の正吾会つぶしだといえるのではないだろうか。結局公民会は8人が当選したが、正吾会からは当選者を出せなかった。

中央では、安達謙藏を中心とした新党樹立運動が、昭和7年12月23日に国民同盟として結実した。結盟式には、豊橋公民会、新興青年党、そして『参陽新報』からそれぞれ出席者があった。豊橋公民会は同志会系の新聞であった『参陽新報』に拠って論陣を張った。そして昭和8年の4月ごろからは日常斗争に入った。具体的活動は、下水道事業案の認可、陸軍病院の慰問、浜松爆撃隊復興資金の献金運動、そして五・一五事件の被告である愛郷塾関係者の減刑運動などだった。

公民会とは別に、東京に本部を置く右翼団体である昭和神聖会も活動を活発化させた。昭和9年10月28日には、昭和神聖会は三河支部を結成した。

なお、『参陽新報』について、同志会系だったとされるが、もともとは自由派系から始まっており、そしてその新聞と縁の深い高橋小十郎は、大口喜六初代市長の後を襲ってわずか1年だけ市長を務めている。これは、大口喜六系の人々が、市制が施行されていないのならば好き放題やるぞ、という勢いを見せたのを高橋小十郎が体を張って守ったとも見ることができそうだ。高橋は飯村溜池事件で失脚したということだが、実際にはその時期は国政で高橋是清が初めて大蔵大臣となった時期と重なっており、全国的な文脈整理に巻き込まれた可能性がありそう。いずれにせよ、高橋小十郎のそういった背景を考えれば、それと縁の深い『参陽新報』を単純に同志会系の新聞としてみることは間違いであるといえそう。市制導入を容認せざるを得なかった立場の新聞としてみるのがふさわしいのではないだろうか。

公民会の具体的活動は、下水道事業案の認可はともかくとして、それ以外は非常に軍部に偏った政策実践で、そんなことが地域の問題解決につながるのか、というのは大きな疑問。結局反共産主義的な考えを、国家主義に塗り替えただけのようにも見える。実際、隣接町村の合併以来豊橋市への集権圧力はますます高まったように見える。その勢いに乗り、それを加速させたのが豊橋公民会だといえるのではないだろうか。

ファッショ運動と労働運動

ファッショ勢力は、既成勢力に対抗したが、それ以上に共産勢力を憎悪した。ファッショ勢力の国家改造運動が、共産革命の危機から既存度国家体制(天皇制)を救うことを根本の契機としていたとすれば、それは自然のなりゆきであるが、そのためファッショ勢力が最大の勢力を注ぎ込んだのは、共産勢力との対決であり、そのぼく滅であった。

豊橋市政五十年史 (P261)

ファッショ勢力は、結局その最大の目的であった労働者階級を取り込むことができず、それを共産勢力の牙城としてしまったのだといえる。それは、ファッショ勢力が具体的な政策ではなく、軍部への肩入れと共産勢力撲滅を目的とした、武闘派的性質を持たざるを得なかったので、そこまで過激化したくない労働者階級にアピールできなかったということがあるのではないだろうか。

その反共産主義的な考えは、メーデーの粉砕という目的の明確化とともに、警察との密着という結果をもたらした。このような警察とファッショ勢力の結びつきは、国家主義的な動きの基礎をなすこととなったといえる。

三月事件・十月事件、五・一五事件と発展したファッショ運動は、昭和十一年の二・二六事件で頂点に達した。豊橋もまた二・二六事件の火の中にあった。豊橋陸軍教導学校の将校二名は、下士官兵一二〇名をひきいて西園寺公望殺害の計画をすすめていた。計画は未遂に終わったが、将校は進んで事件に参加した。

豊橋市政五十年史 (P263-264)

豊橋陸軍教導学校から東京にいるであろう西園寺公望の殺害計画を立てるというのはどうにも理屈が合わなさそう。これは、あるいは西園寺が豊橋を拠点としていたことを意味するのだろうか。それとも、豊橋というのがどこか別の場所にあったことを示唆するのであろうか。

軍の首脳部は事件のドサクサに乗じていよいよファッショ体制の確立にのりだした。過去一二年間、野依町や二川町・高豊村と陸軍当局があらそいつづけた天伯原演習場問題は「時局」の前に民間側の譲歩―馬ふん下肥の無償払下げの条件をのんで、七万円の損害賠償請求を撤回―をもって十一年三月上旬終了した。三月二十四日にはメーデーが禁止され、国家機関の改革による国家改造が着手された。

豊橋市政五十年史 (P264)

十年あまり戦い続けた演習場問題が、二・二六事件が起こった直後に撤回によって解決に至るという、武力の恐ろしさ。これは象徴的に、日本全国が軍部の力の前にねじ伏せられたということを示すのかもしれない。時局とは、いったい誰にとってのだれのための時局であったのか。勢いに乗って社会が動くということの恐ろしさが典型的に表れているといえる。

メーデーについては、

1936年、二・二六事件発生により戒厳令が敷かれた後、同年3月19日付けで治安維持を目的とする内務省警保局通牒「集会及多種運動の取締方に関する件」(「多衆運動ハ従来慣行ニ依リ許容ジラレツツアルモノト雖モ右期間中ハ凡テ之ヲキンシスルコト、従テ愛国労働祭又ハメーデー等の計画アル向ニ対シテハ予メ之ヲ中止スル様諭旨スルコト」)が発せられ、3月24日にメーデー開催が禁止された。 内務省は、労働団体が労働祭の開催を要望するのであれば、後日、適当な機会に許可するとの意向を示したが、大半の労働団体は5月1日に開催できないのであれば意味はないとして第17回メーデーは中止された。 これに反対する無産政党や日本労働組合全国評議会(全評)の組合らは3月26日にメーデー禁止措置反対行動を起こし、内務省や警視庁へ抗議、4月27日に全評の山花秀雄が組合幹部個人の名義でメーデー実施を指令し、当日は小規模ながらも全国で様々な形の集会やデモが開催された。指令を発した山花はメーデー終了まで愛宕署に検束拘置された。この年から1945年まで日中戦争激化などの理由で開催されることはなかった。

Wikipedia|メーデー

ということで内務省の命令であった。当時は広田内閣、潮恵之輔内務大臣であった。選挙直後のクーデターで国中が委縮し、内閣も変わったばかりで、最初の大仕事ともいえるのが、軍部への統制というよりも、それにおもねったメーデー禁止に至るというのが、翼賛体制方向へ大きく舵を切ったのだとも言えそう。

ファッショ側が軍や警察と結ぼうとし、そして軍や警察がファッショを利用しようとするという相互依存の構図がここに現れている。ファッショ側の反共産というのは、共産的な組織ではなく、共産的な革命志向でもなく、単に共産主義的な反体制志向に対する反共産、つまり、自分の言うことを聞くのならばよいが、いうことを聞かなければ抑圧するという、なんとも自己中心的な考え方であったことがよくわかる。

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