謎の心身とかの不調和感が延々と続くのは仮に運命だとしても無意識レベルでの自らの選択による必然だという法則性を私も認めたくなった頃合いなのかもしれない。

『(記事が)書きたくなったんじゃよ。


というようなことを思ったんだね?


※追記※今回のお題です

ずっと心身の調子が悪い(良くない)状態が持続するのだとしたら、その中で私は何に気付くべきなのだろうか?


というようなことを非常に強く感じているということなんだよ。

それは5月のソレに似ているし、
その不調感~停滞感~閉塞感のような体感は6月にも続いていって、
いつしか一時終わりを迎えた気がした。

しかし7月も全く心身の調子は良くなかったけれど、そんな中でも行動や変化を起こすことは可能になったりした。


……たぶん、私は気付き始めている。

(ほぼ)ずっと調子が悪いような心身の不調感やら内圧としてのストレスやらが感じられ続けるような現実感の中で、私はそれらにどのように折り合いを付けてバランスを保ったり、それらを何かしら完全無欠に活用する術や道というものは存在し得るのだろうか???

そんな感じのことを私は考えている。


それらが「間違い」ではないことは理解できているのだけれど、だとしても心身の不調感やら困難さのようなものが長期間持続する状態というのは普通(以上)にしんどいのである。


そして同時に、
私は極めて内面的なものとして「停滞」を実感していることにも気付いている。

以前に比べればよほど調和的な状況が目の前にあるのだとしても、それとは関係のない何かとして私自身は確かに自分の中に停滞感や閉塞感のようなものを感じ取っているとわかる。


……波動的周波数的な見方をするなら、
もうこの周波数の時点で「次」の可能性は閉ざされているということは単純な事実として理解することはできるのだけど、

それなら今現在の私はどうすればいいのかという部分がどうしても意識の表層にまで上がってこないような状態にあるように思えるのだ。


例の言葉のように、
無意識を意識化するまではソレになすすべなく翻弄され流され続けることになるのだということはわかったとしても、それを捉えようという意識さえ散漫になって集中することができないような状態に置かれているのだとしたら、その状態では何ができるのだろうか?

今の私はそんなことを考えているのだ。


なぜなら「コレ」から逃げることはできそうにもないし、積極的に挑んだからといってすぐに消し去るような真似もできそうにないし、そういう逃げるか挑むかのような表面的だったり極めて二元的な選択や判断が正しい答えにも思えない状態にあるのだろうから。


であるならば、
「その中で」答えを見つけなければならないということもなんとなくわかってくるに違いないのだと、私は感じているのだろう。。。

つまりそれこそが今の私にとって「無意識を意識化する」ための試みとなるものだから。


速やかに逃げればいいのでもなく、
勇敢に闘えばいいだけでもなく、

そのどちらかではない何かしらの完全な答えとなるものを見つけ出さなければならないという方向性に私は気付いているのだろう。

そしてたぶんそれは、一足飛びに得られたり辿り着くことができるようなものではないということもなんとなく勘づいているように思う。だからこそ私はこの「停滞不調閉塞感」の中で答えとなるものを見つけ出さなければならないと感じているし、恐らく結論から言ってしまえばその答えを見つけ出すまで「そのような状態」は続く必要があるという逆説的な理解も十分に得ているように思えるのだよ。


だからまず私は気付くべきなのは、

この「停滞不調閉塞感」であるものとは、抜け出すべきものではなく何らかの重要な気付きや学びとなり次のステージの可能性を開き現実として連れてくるために必要な具現化のプロセスの1つと正しく理解した上で、それらを完全なものとして活用する術を探るという視点や意識のシフトに違いないのである。。。

幸いなことに(?)
既に私はこのような体感を今月初めくらいから薄々感じ取っていたり、実際に何もわからないような半ば無意識に近い状態でそれなりの時間を過ごした後だから、もう意識を取り戻したり知性を思い出して無意識に流されて生きる状態から抜け出しても問題がないのだろうから(笑)


前回の記事もその一種ではあるけど、
真に他者の評価やらを気にしないで必要で価値のあるものを優先するってのはこういうものなのだとわかる。

何しろコレらはここに書かれている以上のものを基本的に説明することはできないしその必要性もないとわかるから。
そして時が訪れたらその宣告のような言葉が本物になることもあるのだろうし、もしそうなった時にはそれをわざわざ説明する必要もなくなってしまうのならやはりこのことについて説明すべきタイミングなんてものはどこにも無いようにも思えるのである


だから本当に、
「このこと」は他者に語ったり同意や賛同を求める必要なんてないばかりか、そのような選択こそが具現化や「顕現のプロセス」というものを妨げている悪手そのものであり諦める=手放すべき幻想の最たるものなのかもしれない……

とかそんなことを同時に感じたりもしてる。


そう、
だからこそ「予め」他者に理解されたり受け入れられたり賛同されることを期待する想いとは正しく理解され手放されることが法則性として必要だったのかもしれないと、今の私は感じているに違いないのだ。


……上にも書いたように、
実践し理解すれば理解するほど、
「説明」のタイミングというものが基本的には全く必要ないということが明確になっていくように私には感じられるんだよ。


いわゆる「幻想」とはそういうもので、
それが「幻想」だと気付かずに有効な選択肢の1つとして選ぶことができたように思えたとしても実際にはその可能性は存在していない……というか望んだ結果に行き着くような選択肢ではないという「認識と現実のズレ」のようなものを事実として確認した上で明らかにしていかなければ理解できないようなものだと言える。


だから、今までの私はそれが「幻想」だということに気付いていなかったんじゃないかということにようやく気付けるようになった段階なのだろうなと感じているということだね(笑)


……実際、その「選択ミス」としても閉塞感不調感停滞感というのは波動的周波数的に証明されるようなものだし、たぶん私は上で正しい方向への意識のシフト(転換)を行うことができたということで、さっきまで感じてたそれらの独特な非常な不調和感というものが薄れていっているということが今まさに感じ取れている。


無意識を意識化する」とは、まさにそういうことなのだろうし、それをわざわざシャドーワークと呼ぶ必要がない程度に自然にありふれたものや「より調和した自分=人生」の顕現のプロセスの一部として捉えるのであれば、それは定期的に訪れるサイクルの1つとして上手く受け入れ活用することができるようになることは十分に有り得るように思えるし、
もしかしたらそうなった時に初めて、停滞感や心身の不調感や閉塞的体感のようなものは時間をかけずに流れ過ぎ消え去ってゆく呼吸程度のものになるのかもしれない。



つまりそう、
私はただそういう「顕現のプロセス」とか超自然なサイクルやら法則性であるものを無意識レベルで恐れ抵抗し逆らっていたから不調和な波動的周波数的状態が持続されることによって長期に渡って心身の不調さや困難さを自ら維持し続けていただけだったのかもしれないのだ!


それがあの言葉だったのだろう……


いい加減にさ、無意識レベルでの恐れや抵抗による不調和な自己と現実感を選択し続けていることに自分が気付かないようにするための便利な道具として「宿命」とか「最高最善」とかやたら綺麗そうな言葉で隠すソレ、やめようか?


………………そして、もし仮にそれを当然のように受け入れ理解し活用することができるように私が変化するのだとしたら、それ以前の自分とは非常に異なる質を持つようになることは十分に有り得るとわかる。。。
だからそういうジャンプアップみたいな大きめのシフト的自己変化が起こる予兆としての長期的だったり重めの体感としての心身の不調和を体験するということは法則的にも間違いではなく正しいというのも事実に違いないと私はそう思ったのだろう。




……元より、このような理解や意識のシフトというのは基本的に内面で体験され実感され現実として半ば瞬時に落とし込まれたり反映されるようなものなのであるから、それを説明するということは様々な原理的理由から不可能に近いものだというのは明らかだと言える。

だから私たちが本当に自分と人生をシフトするようになった時には、それらが実現するまでには長い時間を要したとしても、実際にシフトが起こり達成される時間なんてのは長くても数秒に満たない程度のソレに違いないんだよ。

だから私たちはいつしか「古い自分と世界を置き去りにして飛び立つ」時が来るんだよ。


だからそれを説明することは不可能であると同時に明確に不必要なことなんだよ。なぜならそれを説明しようとする意識こそがシフトを否定し不可能にさせるものなのだから。

だからコレは基本的に(予め)他者に理解されたり受け入れられることを望むことは不可能だから諦め手放すべき「幻想」なんだよ。

他者に期待すべきじゃないとか、
全くそういうレベルの話ではなくて、

ソレを必要と信じる自分の意識こそが古い自分を証明することになるから、シフトを望むのならそれを必要としない自分になることこそ必要になるんだから。

そしてその二つは同じ自分として共存することはできないんだよ。だから必ずどちらかだけの自分=現実にならざるを得ないんだね。よって法則的に速やかにシフトが起きるか全くシフトが起こらないかのどちらかになるわけだよ。
特にコレを閾値と呼ぶらしいのだけど。


そんな感じで今の私は「法則性のマスター」としての学びのための相応しい舞台となる現実感を生きている時期にあるということを思い出したらしいんだね💡😃


つまり「コレ」を修得できたら「アセンション症候群」として扱われてきた謎の不調感も速やかに解消に向かわせられるようになるという可能性があるわけでだし「マスター」はそういうことを普通に知ってる可能性があるってこともわかってくるわけですねぇ?
う~む……実に興味深い限りですな!



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