* interview Tomeka Reid:チェロでジャズを弾くこと、作曲/キュレーション論、AACMについて(1,5000字)
僕がトミーカ・リードに注目し始めたのは彼女が自身のカルテットを結成して作品をリリースし始めたころだった。トミーカのチェロとメアリー・ハルヴァーソンのギターをフロントに、ジェイソン・レブキのベースとトマ・フジワラのドラムがリズムセクションを担うこのグループはそれぞれの演奏者の演奏は言うまでもないが、同時に楽曲の素晴らしさがこのグループを特別なものにしていた。

個々の演奏を最大限に反映する作りになっていて、それぞれの演奏のキャラクターがそのまま楽曲の個性に繋がっているのだが、特定の誰かが突出するのではなく、全員のアンサンブルが調和する構造にもなっていた。個々の即興演奏に関してもあくまで「楽曲」を演奏する中での即興である意図が伝わってくるもので、自身をアピールしつつも必要なものを簡潔に出しているようにも聴こえた。デザインされていることと、個性が活かされていることが両立していた。風通しはよいのだが、決してゆるくはなく、演奏者が能動的に楽曲に貢献しているさまが興味深かった。
そのうえでフリージャズ的な即興もあれば、エフェクトを駆使した空間的なパフォーマンスもあり、かと思えば、スウィングやグルーヴも備わっているし、親しみやすい旋律へのこだわりも感じられた。トミーカが類まれな作曲家であることは明らかだった。
しかも、彼女の楽器はジャズではめったに使われることのないチェロなのだ。ヴァイオリンでもダブルベースでもなく、チェロ。彼女はこれまでにジャズで使われてきた数少ないチェロの事例を丹念に研究しながらも、現代にふさわしい方法を新たに編み出そうとしている。
そういった試みをアフリカンアメリカン(の女性)の立場である自身に自覚的なマインドで行っているのも彼女の特徴になっているはずだ。AACMのメンバーでもある彼女の音楽にはそんな文脈も織り込まれている。
2024年6月の初来日に際して、トミーカ・リードへの取材を行った。彼女はとても饒舌で、自身のキャリアや考えについて、どんどん話してくれた。僕らはそれをひたすら浴びているような状況だったが、そのおかげで彼女の大枠をようやく日本語で示すことができる記事を作ることができた。Rolling Stone Japan掲載のメアリー・ハルヴァーソンの記事と併せて読んでもらいたい。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 通訳:丸山京子
協力:nagalu | S/N Alliance、Omnicent

◉チェロとの出会い
――チェロを弾くようになったきっかけを教えてください。
母の希望で、メリーランド州の公立学校システムにあるフランス語イマージョンスクール(*1)に通っていた。唯一英語で授業が行われてたのが音楽で、もともと音楽も好きで、フランス語が喋れない私にとってそこは特別な場所だった。普通は英語を喋ると罰則があるけど、そこでなら友達と英語が喋れて、音楽も楽しめる。フルートとバイオリンが人気だったから、私と友達は「わたしたちはちょっと違うから」とタフな所を見せようと、大きくて重いチェロを選んだ(笑)。それがきっかけ。その時からチェロという楽器が大好きになり、他の人たちと演奏するのも大好きだった。私にとってコラボレーションが大切な練習だったの。自分も音を出し、周りの子たちも音を出し、何かを作り上げているんだという感覚が大好きだった。
今やっているTomeka Reid Quartetにしても、曲を書き、ギグを見つけてくるのは私だし、私の名前を冠しているけど、バンドメイト無しでは何も意味がないと思ってる。彼らが私のアイディアに命を吹き込んでくれる。チェロの役割が基盤を下から支えるサポート役だからというのもあるのかもしれないけど「波に乗る」のではなく「私が波になる」という感覚でやってる。チェロはベースの役割も果たせるし、ソロもとれるし、ハーモニーの役も果たせる。ヴィオリンのような「私、私、私」になる必要は感じなかった。ただいい音楽の一部になりたい、自分よりも大きな何かの一部になりたい、っていうことなんだと思う。
――子供のころから縁の下の力持ち的なところに意義を見出していたと。あなたはメリーランド大学でどんなことを学んでいたんですか?
専攻はチェロ。私は小学4年生からチェロを弾いていたけど、個人レッスンを受ける余裕はなくて、学び始めたのは高校に入ってから。だからチェロ専攻で大学に入学できるほど、レパートリーを弾いた経験もなかった。その道に進もうっていう子は大抵、レパートリーを多く弾いているものでしょ。でも、高校のチェロの先生がメリーランド大のチェロの教授のパートナーだったので「この子は真面目な生徒だから」と推薦してくれて入学が許された。そこでクラシック・チェロの音楽学士号をとった。
――つまり、大学生の頃は、クラシックしかやっていなかったと
ええ。というのも、私はスタートが遅かったから「このレパートリーを学ばなきゃ」「楽器をもっと学ばなきゃ」という思いが強かった。弾いてたのはほぼクラシック。そのころの私はプロのチェロ奏者を目指すなら他のことは邪魔になると思ってたから。今思えばそんな考えをしなければよかったのだけど、18歳、19歳の時ってそんなものでしょ。
◉シカゴへの移住とニコール・ミッチェル
―― あなたのキャリアにとってはシカゴへの移住が大きかったと思います。どんなきっかけがありましたか?
高校時代の親友がシカゴのNorthwestern 大学に進んだから、96年の夏、彼女に会いに行った。その時にシカゴに恋してしまった。
98年の夏、シカゴの検眼医の学校に通ってた姉が帰郷する間だけ、彼女のシカゴのアパートに私が住むことになった。その時、たまたま「Classical Symphony」というクラスのオーディションのチラシを見かけた。ここにいる間だけでもチェロを弾く場があったらいいと思って、オーディションを受けてみた。そこでニコール・ミッチェルに会った。
―― へー!
このオーケストラには黒人の弦楽器奏者が5人もいて、それだけで「私は絶対シカゴに引っ越してくる」と思った。だってそれまで黒人はセクションに私一人、もしくはオーケストラに一人ないしは二人いただけなのが、5人もいるなんて!それにニッキー(=ニコール)がクールですごくいい人で「シカゴに来るなら私のバンドで演奏して」と言ってくれた。私もずっとバンドで弾いてみたいと思ってたから。大学卒業後はクラシック以外のことをしてもいいかなと思い始めていたころだった。心の中で、オーケストラの道に進みたくないと自分でわかってたんだと思う。もしニッキーが本気でそう言ってくれているのなら、シカゴに移ってきたら、入れてくれるように頼もうと思っていた。
――なるほど。
そして2000年、荷物をまとめ、Greyhound(長距離バス)でシカゴに来た。De Pau大学に行き、ニッキーを探し出し、一緒に演奏するようになった。それを機にシカゴの即興音楽シーンに参加するようになった。それまで聞いていたジャズというとストレートアヘッドで、ビバップタイプのジャズだった。でもニッキーと出会い、Fred Anderson's Velvet Lounge(*2)で演奏するようになった。あれは当時、シカゴにいる者にとってとても意味のある場所だった。みんながその場で、集まり、フォームさえない音楽を即興で作っていた。私にとっては、そんな音楽は生まれて初めてだから、めちゃめちゃ怖いことだったのを覚えてる。
――クラシック音楽を勉強してきた人は、ニコール・ミッチェルがやっているような音楽に触れることはなかなかなかったと思うのですが、最初に聴いた時の印象はどうでした?
私は最初からすごく好きだった!何よりも違ったのは、彼女が私に望んだこと。「変な音をいろいろ出してほしい」って。私はついこの間まで、大学の5年間かけて、キーキー鳴る音を出さないにはどうすればいいかを学んできたわけ。でも、それをやっていい、しかも人前で、コンサートでやれと言うんだから驚いた(笑)。私にとってコンサートは、1学期かけて練習した曲を、スタジオの授業で何度か演奏して、ようやく人前で演奏するものって印象だったから。前日の夜、もしくはギグの当日にリハーサルだなんて怖くて仕方がなかった。でもすごく楽しかった。リズムセクションがあるのも、「音楽と作曲家との距離」が近いことも新鮮だったし。
――音楽と作曲家との距離が近いとは?
クラシック音楽では21世紀ものではない限り、21世紀だったとしても、作曲家本人と一緒に空間にいるなんてことないでしょ?しかもコンポーザーが黒人の女性。(ニコールを見て)「私もいつかこんなことができるかもしれない」と思った。《Representation matters》(*3)と言うでしょ?まさにそれだった。彼女はバンドを率い、音楽を書き、ギグのブッキングもやっていたから。
◉シカゴのコミュニティ
もう一人、そこで出会い、私のメンターになったのはヴォーカリストのディー・アレキサンダー(Dee Alexander)。彼女も曲を書き、バンドをブッキングし、バンドを率い、ニッキー同様バンドでツアーを始めるところだった。シカゴの中でも色々な活動をしているけれど、それを全米に、そして海外にまで持って行こうとしていた。若い黒人女性の一人としてものすごく衝撃を受けた。そこがシカゴのシーンの中でも、特殊な点。というのも大抵、教えるのは男性。私のように二人の女性がメンターだった女性は、同世代の中にもほとんどいないはず。
またマイク・リード(Mike Reed)にも感謝してる。数歳年上なだけだけど、私にとってのメンターだった。とにかくニッキーとディー はシャイで、ひどいステージ恐怖症で泣きながらステージに上がっていた私を、いつも励まし続けてくれたわ。ディーに「もうギグに頼めなくなるくらい、あなたはいずれすごく売れっ子になる」と言われて「何言ってんの?」と思ったこともあった。そのころの私は全く自信がなかった。二人からは常に「自分のバンドを作りなさい」「作曲をしなさい」と励まされていた。若い時は作曲もしてたのだけど、私はシンフォニーを書くのが作曲だと思いこんでいた。でも、いろんな種類の曲の書き方があるんだと、二人そしてAACM(*4)を通じて学んだ。「自分のvoice(声、主張)を見つけろ。人を引用するな」と。多くの学生は(誰の演奏を)採譜して、lickを一つくらい入れればそれでいいと思ってたけれど、彼らは「そうではなくて、自分のvoiceを見つけないとステージで自爆する」と言ってくれた。
――シカゴのコミュニティでは最初からオリジナルなものを目指せる環境があったと。
あとはFred Anderson's Velvet Loungeで多くの仲間ができたことも大きかった。マイク・リード、ジョシュア・エブラムズはニッキーの紹介だったけど、彼はマイクと私がやってたバンドにいたし、グレッグ・ウォード、ジェイソン・アダシェヴィッツ、ジェイソン・レブキ、キース・ジャクソン…など彼らのやってることを見て「いつか私もこういうことができるかも」と思ったから。
◉AACMのこと
――AACMに加入したきっかけは?
ニッキーを通じて。あとはVelvet Loungeに出入りするうちに知った。私が加入したのは2005年。彼らもちょうど新しい風を吹き込むような若い世代を探していたところだった。
というのも団体創設当時は第一世代の人たちがいて、その後、80年代〜90年代も活動は盛んだった。でもなぜか、その時は少し低迷気味だった。ニッキーから最初誘われた時は、団体のことは何も知らなかったので緊張したけれど、メンターである彼女が言うのだからと、参加したって感じ。マイク・リード、私、コーリー・ウィルクス、ジュニアス・ポール…がいた。
そのころ、ジョージ・ルイスの本 『A Power Stronger Than Itself : The AACM and American Experimental Music』を読んで「なんだかとてもヘヴィ…」と思ったのも覚えてる。

その時は20代半ば〜だったから自分を見つけきれてなくて「この実験音楽という音楽に惹かれてはいるけれど、まだクラシックを完全に捨てたいわけじゃない」と思ってた時期。人からは「ジャズを演奏するとレッテルを貼られる。もうクラシック音楽が演奏できると思ってもらえない」と言われ…確かに音の外れたような曲があって、仕事がしたければ、完璧な演奏をするものだとクラシックの弦楽奏者としては思うわけでしょ。「どうしたらいいんだろ?」と板挟みだった。と同時に、ものすごくこの世界に惹かれ、魅了されていた。クラシックのセッティングでやってた時とは違う形で自分が参加できると思えたし、すごくシャイだった自分が人間として成長するいいチャンスだとも思えた。ステージ上で何かを作り出すことに、居心地の良さと悪さを両方感じながらも、自分で自分を奮い立たせようとした。そうすることで音楽的に発展するだけでなく、個人としても《be present》(=その場にいる)”ということを学んだ。決してこれで完璧ということじゃない。まだ私はこの音楽の中で成長している。空間、コミュニケーション、音楽を聴くこと…それらはフリーな即興演奏には欠かせない大きな要素。そういった様々な状況を通じて、結局は《Finding your own voice》というAACMの哲学を学んでいる。
「トミーカとは何者?」
「この音楽は私にどういう意味がある?」
とたくさんのことを自分に問い、その答えを探そうとしている。
◉チェロでジャズをやること
――ジャズにおいてチェロを弾く人はかなり少ないと思います。そんな中であなたはどんなものを研究してきたのでしょうか?
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