* interview Brandon Woody:ブラックとしての責任、ボルチモア出身者としての責任(12,000字)
2025年、名門ブルーノートがリリースしたのは世界的には知名度のないトランぺットの新人だった。
名前はブランドン・ウッディー。まだ26歳の新鋭だ。
その知名度の低さの理由は彼の活動の拠点がNYでもLAでもシカゴでもなく、彼の地元ボルチモアだったこと。しかも地元の仲間たちと結成したグループでの活動を軸にしていた。デビュー作『For the Love of It All』も著名なゲストを起用せず、気心の知れた仲間たちの録音だ。
しかし、その音楽を聴けば彼がブルーノートと契約する理由は一発でわかる。『For the Love of It All』で聴こえるのは、フレディー・ハバードやウディ・ショウにも通じるパワフルで溌溂とした演奏から、アンブローズ・アキンムシーレにも通じる現代性までを兼ね備えたスタイル。このデビュー作にはジャズ・トランペットを聴く楽しさに満ちている。誰もがトランペットのスター候補が登場したと思うはずだ。
そんな才能あふれるブランドンだが、ローカルで活動していたこともあり、情報は少ない。そこでアルバムがリリースされ、ブルーノート東京での初来日公演が決まった今、ブランドンのへの取材を敢行した。とりあえずこの才能がどんな歩みを経て開花したのか。そんな話を聞いている。
ちなみにブランドンはひとつ問いを投げると10倍になって返ってくるようなキャラクター。彼が一気にまくし立てたイメージで聴いてもらえると嬉しい。その喋りもトランペットの演奏そのもの。エネルギッシュだが、実は驚くほど繊細で、ソロの着地点は見えている。彼の話は全てコントロールが完ぺきだった。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 通訳:丸山京子
協力:ブルーノート東京 , ユニバーサル・ミュージック
ヘッダー写真:Shan Wallace
◉ 10代のころの影響源
――これは僕たちが行う最初のインタビューみたいなものなので、まずはすごく基本的な質問から始めさせてください。まず、10代のころ、どんな音楽を聴いていましたか?
高校に入ったばかりの14〜15歳のころ、ニューオーリンズ出身のトランペット奏者クリスチャン・スコットをよく聴いてたのを覚えてる。彼のユニークなサウンドに惹かれたんだ。初めて聴いた瞬間、「わっ、彼は完全に自分の音を持ってる!!」って思った。音色だけじゃなくて、曲のテーマも彼自身の人生からきてるような、とてもインスピレーションに満ちたものだった。トランペット奏者として、あまり年齢が離れてない誰かが“自分の声”を持ってることはすごく刺激になった。
その頃、地元ボルチモアのジャムセッションにも通い始めた。トランペット奏者クラレンス・ウォードがそのセッションを主催していて、14歳のころにそこで街のすごいミュージシャンたちと出会った。そのなかに、同郷のトランペット奏者でセルジョン・アレン(Theljon Allen)って人がいて、彼の演奏をセッションで初めて聴いたとき、「こんなの聴いたことない!」って驚いた。トランペットであんな演奏をする人はそれまで見たことがなかったからほんとに感動したんだ。彼も僕をすごく歓迎してくれて、それからは彼のセッションにいつも行って、自然と彼に学ぶようになったんだ。
で、セルジョンやクリスチャンをきっかけに、僕は“ルーツをさかのぼる”ようになった。彼らに影響を与えた人たちを調べて、そのまた前の世代も掘っていって。高校ではフレディ・ハバードやブッカー・リトル、ブルー・ミッチェルを聴きた。それもセルジョンやクリスチャンを通して出会ったんだ。僕にとって彼らは「橋を架けてくれた人たち」なんだよね。
だから、高校時代はほんとにエキサイティングな時期だった。クリスチャン……いや、今は「チーフ・アジョア(Chief Adjuah)」って名前か。彼の『Yesterday You Said Tomorrow』ってアルバムの中に「Angola, LA & The 13th Amendment」って曲があって……これがマジで衝撃的。最近その曲に参加してたギタリストのマシュー・スティーヴンスと話す機会があって、ニューヨーク・ウィンター・ジャズ・フェストで同じギグだった。そのとき彼に言ったんだ、「あの曲、14歳の自分にめちゃくちゃ影響を与えたんです」って。当時、10代ならではのいろんなことに直面してたのもあって、毎日その曲を聴いてた。ほんとに、繰り返し何度も。まるで救いを求めるみたいに。あの曲は自分を助けてくれるような音楽だったし、僕にとって“癒し”だったよ。
そんな感じで僕はセルジョン・アレン以外にも、地元ボルチモアのミュージシャンにはすごく影響を受けてる。ティム・グリーンやゲイリー・トーマス、それにクラレンス・ウォード。僕が彼らに惹かれる最大の理由は、その人だけのオリジナルな声だけではなく、そこに“都市”や“文化”の音が聴こえること。その人が育った場所の空気感が音に表れてること。
――なるほど。
ボルチモアのミュージシャンには、ボルチモアのサウンドがある。僕自身も独自のスタイルを持ってるけど、やっぱりボルチモア出身の音がすると思う。フィラデルフィアやLA、NY、それぞれの街にはそれぞれのサウンドがあるんだよね。その人がどこで生まれて、どんなコミュニティに囲まれて育ったかで音が変わる。そして、これはもしかしたらバイアスかもしれないけど、やっぱり僕はボルチモアのミュージシャンが一番好きなんだ。世界でいちばん好きな街だし、最高のミュージシャンがここにいると思ってる。自分が育った場所だからっていうのはあるけど、自分の視点、自分の経験、自分を取り巻く環境があって、それが僕の音を作ってるんだ。
――ゲイリー・トーマスとの関係はどんなものでしたか?
彼は僕にとって大きなインスピレーションをくれた人。高校生のときに、セッションか何かで彼と出会ったのを覚えてる。僕は土曜日にピーボディ・プレパラトリー(付属音楽学校)に通っていて、たしか彼のオフィスで会ったんだ。そして、2〜3回レッスンしてもらったか。彼は高校生の僕が大学レベルの先生から学べるように、すごく気を配ってくれた。高校の最終学年のときには、彼が運営していたプログラムにも参加させてもらったことがあったんだ。ゲイリー・トーマスは以前ピーボディ音楽院のプログラムを運営していて、「Peabody Improvisational Mix Media Ensemble(PIME)」っていうアンサンブルを指導していた。高校生だった僕を、そのリハーサルや本番に参加させてくれて、一緒に演奏させてくれた。彼は僕の中にある可能性を見出して、大学生たちの中に放り込んでくれた。それによって、すごく鍛えられたし、たくさん学ぶことができた。
◉ 研究したトランペット奏者たち
――トランペット奏者で採譜したり、研究したりした人っていますか?
僕は採譜しない。僕は聴くんだ。耳で聴くんだ。
好きなプレイヤーをあげると、もちろんセルジョン・アレン、ボルチモア出身の僕の大好きなトランペッターだ。クラレンス・ウォード、そしてブッカー・リトル。あとはフレディ・ハバードも大好きだし、アンブローズ・アキンムシーレは言うまでもないね。
ウディ・ショウもめちゃくちゃ好き。彼には本当に感動したんだ。彼の「We’ll Be Together Again」ってストリングス入りのバラードがあるんだけど……もう、ほんとにすごい。
あとはテレンス・ブランチャード。僕の“OG”でもあり、良き友人だ。ニコラス・ペイトンも尊敬してる。
同世代の仲間たちにも敬意を表したい。アダム・オファレルやギヴェトン・ジェリン、みんな素晴らしい仲間なんだ
◎ ブッカー・リトルのこと
――ブッカー・リトルのどんなところが好きですか?
ブッカー・リトルについては、セルジョンやクラレンス・ウォードとよく話してた。彼の練習量は本当に異常で、1日12時間も練習してたらしい。その「上手くなりたい」っていう情熱に僕は惹かれたんだ。彼のレコードを聴いても、ほとんど音を外してない。音を割ることもないし、音色も本当に美しい。それに彼は、トランペットという楽器の純粋な“職人”だった。高いテクニカルスキルがあったからこそ、自由に演奏できたんだ。正直、毎日ロングトーンやったり、基礎練やったりするのってめちゃくちゃ大変。でも彼はそれをやっていた。
彼は病気で自分が早くに亡くなることを知っていた。医者から余命宣告を受けていたからね。それでも練習を続けて、演奏を続けた。そういう話を聞くと、「やばいな……」って思う。だって、自分だって明日死ぬかもしれないし、4年後かもしれない。そして、「今の練習に満足できてるか?」って自問することになる。ブッカーは、死を目前にしても、全力で生きていた。もっと学びたい、もっと上手くなりたいって気持ちをずっと持ち続けていた。その姿勢に僕は心から感動するんだ。
◎ ロイ・ハーグローヴのこと
あっ、そうだ、大事な人を言い忘れてた。僕にとって人生で最大級のインスピレーションをくれた人。それが、ロイ・ハーグローヴ。彼には本当に影響を受けた。実は、僕のドラマー、クインシー・フィリップスはロイの最後のドラマーでもあって、ブルーノート東京にもロイと一緒に何度も行ってる。縁を感じるよね。僕はロイのライブを何度も見に行ったけど、本人と深く話す機会はなかった。でもクインシーがある時、ロイが僕の演奏を聴いてくれて「誰だこの若造、俺みたいなサウンドで吹こうとしてるやつは?」って言ってたって教えてくれた。信じられないし、光栄すぎたよ。ロイの映像は何度も繰り返し見た。YouTubeを漁って、夜通し見てたこともあった。(ロイのグループのRH Factor名義での)「Universe」っていう曲が大好きだ。彼の音楽はほんとに“正直”(honest)なんだよね。
“正直”っていうのは、つまり、その瞬間そのままを音にしてるってこと。飾り立てたり、美化したりするんじゃなくて、ありのままをぶつけてくる。それって、いつも綺麗で上品とは限らない。ときに荒くて、汚れてて、生々しい。でも、それがリアルだし、僕はそういう音楽が好きだから。だって、人間ってそうでしょ。汚れてる部分もあるし、でも同時に美しい部分もある。音楽もそれと同じで、全部が混ざっている。僕の音楽には平和と暴力、富と貧困、愛と喪失――全部が同時に存在してる。本当は、貧しい人を裕福な人が助けられるし、飢えた人を飢えていない人が支援できるはずなのに現実にはそれが起きていない。この世界はいろんなものが“共存”してしまってる。だから、音楽にだってそんな矛盾した感覚が出てくる。でも、それが僕のリアルなんだ。
◉ ブルーベック・インスティテュート
――次はブルーベック・インスティテュートにいた頃の話を聞かせてもらえますか?
あのとき、全額奨学金をもらって入ったんだけど、まずそれが本当に嬉しくて。だって、家から3000マイルも離れた場所だったんだ。家族も、友達も、18年間慣れ親しんできたすべてがない場所に行って、自分自身を再発見するっていう――それが僕にはすごく大きな体験だった。当時はアンブローズ・アキンムシーレにトランペットを習うことができた。あとクラシックの先生にもついてたし、ステフォン・ハリスにも出会ったし、エドワード・サイモンにも師事した。ベニー・モウピンがクリニックをしてくれたこともあった。本当に刺激的な時間だったね。自分が何者かを見つめ直すことができたし、逆に「家に帰りたい」という気持ちが芽生えたのも事実だね。
あと、僕のルームメイトもすごくインスピレーションをくれる存在だった。アイザイア・コリアー、ジャメル・ディーンは本当にクールな仲間たち。みんな18歳くらいで、お互いに刺激し合って成長していったんだ。
◎ アンブローズ・アキンムシーレから学んだこと
――アンブローズ・アキンムシーレからは何を学びましたか?
僕がアンブローズの好きなところは、最初に彼に教わったとき、すごく正直だったところだね。最初に言われたのが「お前、全然うまく吹けてないじゃん」って(笑)。「テクニックができてない。やり直しだな」って。そこからテクニックをゼロから組み直した。ルーティンも全部新しくしたんだ。当時の自分には最高の先生だったと思う。
僕が彼のことで好きなのは、あの「冒険心」と「自由さ」。でもね、当時のレッスンで、いわゆるモダンで複雑なフレーズをやったりは全然やらなかった。僕らがやってたのは、ただひたすら「トランペットの吹き方」を学ぶこと。たとえばメジャー・スケールを吹いて、音色やアーティキュレーションについて話して、ルールやシステムについて考える。今の時代って、「自由」や「アヴァンギャルド」っていうのを“ルールの否定”だと思ってる人が多い。でも、それは違う。ルールを知らずに、構造を知らずに、自分の楽器のことを深く知らずに「自由」に演奏なんてできるはずがない。構造を知ってるからこそ、そこから解き放たれる自由がある。だから、たくさん学べば学ぶほど、たくさんのルールを知れば知るほど、逆にもっと自由になれる。知識が増えるほど、選択肢が増える。本を読むこと、勉強すること、音楽を聴くこと。それが本当に大事なんだ。アンブローズはまさに知識人なんだ。彼はとても自由で、前衛的で、未来志向なアーティストだけど、僕が彼から学んだのは「基本」。自由は、基礎の上に築かれるってことだね。
◉ マンハッタン音楽院
――なるほど。
その後、マンハッタン音楽院に全額奨学金で進学した。ちょうどそのタイミングでステフォン・ハリスがマンハッタン音楽院のジャズ科の学科長になったから、そっちに移ることにしたんだ。マンハッタン音楽院ではセシル・ブリッジウォーターから学んだ。
そして仲間たちからもたくさん刺激を受けた。ドラマーのサヴァンナ・ハリスとかね。
◎ ステフォン・ハリスから学んだこと
――ステフォン・ハリスから学んだことについて、もう少し詳しく聞かせてください。
ステフォン・ハリスは、文字通りの「天才」。僕は大学で彼から画期的なハーモニーと聴音(ear training)のプログラムを学んだ。それがね、すごいんだよ。すべてのコードに対して、それぞれのヴォイシングに名前を付けて、それを体系化してる。そのリストはめっちゃくちゃ長い。で、そのコードに含まれる音、つまりそのコードを構成する音たちを教えてくれるだけじゃなくて、それぞれのコードに「感情のラベル」を付けてる。たとえばシャープ11とか、フラット13みたいなコードに対して、それぞれに対応する感情を割り当てている。で、その感情を使って聴音のトレーニングするんだ。つまり、たとえば「これはDメジャー?」じゃなくて、「これはこういう気持ちの音だ(だからDメジャー)」って方法で聞き分けるようにしていく。さらにはその際に(その音に対応する)身体の動きも取り入れていて、それもまたすごいんだ。一緒に身体を動かすのは耳を鍛えるには最適な方法なんだよ。そうやって、ハーモニーの選択のための方法を学んだんだ。
――なるほど。近年、ステフォンから学んだ人が出てきていますが、皆ハーモニーが面白い印象があります。そんな方法だったとは。
でも、ステフォンから学んだ最も大事なことは「ごまかすな」(not bullshit)ってこと。僕が18歳のとき、彼は僕自身がまだ気づいてなかった可能性を見抜いてくれた。
ステフォンはほんとに最高な人。頭が良くて、インテリで、でも同時にソウルフルで、ブラックで、しかも、スワッギー(笑)。ものすごいスキルとツールを持っていて、まさに“豊かさ”にあふれてる。そして彼は、自分より上の世代と下の世代の間に“橋”をかけてくれた人でもある。僕と同世代、少し上や下の世代のミュージシャンにもすごく影響を与えているし、これからもそうであり続けると思う。まさに“ライオット”、真のリーダー――音楽の世界での、本物のリーダーなんだ。
ーーでは、マンハッタン音楽院の話に戻りましょうか。
在学中、ひとつ問題だったのは、教養系の授業にまったく出てなかったこと(笑)。NYに住みながら、働いて、ツアーに出て、人と出会って、自分のコミュニティを築いた。その間、人文学系の授業とかジャズ史の授業には出てなかった。正直、19歳くらいだった自分には関心が持てなかったから。僕はとにかく「現場」で音楽を学びたかった。特にジャズ史の授業に出なかった理由の一つが、教えていたのがずっと大学で研究していた白人男性だったこと。正直、そういう人からジャズ史を学ぶ気にはなれなかった。だって、セシル・ブリッジウォーターやロン・カーターみたいに、歴史を作ってきた本人たちがまだ現役でNYにいるんだから。そういう人から学びたかった。大学でしか活動していなかった人から学ぶジャズなんて、本質を知らないと思う。ジャズって学校の中じゃなくて、路上で、クラブで、ジャムセッションで、先輩たちと関わりながら学ぶものだと思うから。これはコミュニティの音楽であって、学問的な構造の中だけにある音楽じゃない。
結局、そのせいで奨学金を失ってしまって、2018年にボルチモアに戻ることになった。
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