* interview Cécile McLorin Salvant "Oh Snap":朝、パジャマ姿でコーヒーを飲みながら録音した音楽(7,000字)
セシル・マクロリン・サルヴァントは、当初はオーセンティックなジャズ・ヴォーカルのスタイルを体現するトップ・シンガーという印象のアーティストだった。2010年代の彼女の作品群には、「ジャズ・ヴォーカル」を極めようとするストイックな側面も感じられたからだ。
ところが2020年代に入ると、コンセプト・アルバムを制作するようになる。『Ghost Song』『Mélusine』はストーリーを感じさせるスケールの大きな作品だったし、その前の2018年には『OGRESSE』という絵本を題材にしたアニメーション作品を手がけ、その音楽も自身で担当していた。セシルはこの方向に進んでいるのだろうと、多くのリスナーが感じていたに違いない。
しかし、2025年に新作がアナウンスされ、先行シングルを聴くと、どうやら今回はこれまでとは異なるベクトルの作品だとわかってきた。
資料によると、「音楽とのつながりを失っていると感じていた」というセシルが、発表することを全く考えずに自宅でGarageBandやLogicを使って地道に音楽を作り、リビングで歌を録音していたという。時にはツアー先のホテルでも制作を続けた。セシルが意識していたのは「日記を書くように作った音楽」だった。不慣れなDAWを駆使し、遊ぶように音楽を作り続けたそうだ。
そうした作業を4年間続けた末に、彼女はそれを表に出そうと考え、改めて録音したり、気心の知れた仲間たちの演奏を加えたりした。それが『Oh Snap』である。
日記、あるいはスナップショット的な性格を持つこのアルバムには、スタジオで録り直したものだけでなく、あえて自宅のリビングで録音した歌も収められているという。手作り感、アマチュアリズム、DIY精神にあふれており、どこか軽やかで風通しのよさを感じさせるのは、そうした制作背景によるのだろう。それでも随所にセシルならではの魅惑的な瞬間が聴こえてくる。
キーボードとマウスをいじったり、エフェクトのつまみを思い切りひねったり、これまでの作品にはなかったシンセベースを大胆に取り入れたり、スマホのヴォイスメモを使ったり――そうした遊び心が随所に感じられる。思い返せば、今年のブルーノート東京でのライブでも、ドラマーのカイル・プールがドラムパッドを使い、サリヴァン・フォートナーがシンセを弾き、エレクトロニックな曲を披露する時間があった。あれは『Oh Snap』的なパフォーマンスの先触れだったのかもしれない。来日公演を観た人は、そんな記憶を重ねながら聴いてみてもらいたい。
ここでは『Oh Snap』の収録曲について、普段ならSpotifyを貼るところだが、YouTubeを紹介した。このYouTubeのサムネイルには、今のセシルの生活や『Oh Snap』制作の雰囲気が写し出されている。曲だけでなく、そこにも目を向けてほしい。
取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 現場通訳:丸山京子 | 協力:Warner Japan
◎ Garage BandやLogicでの制作
──最初からコンセプトやアイデアがあったわけではなく、GarageBand や Logic に入っているシンセサイザーや MIDI をとりあえず触ることから始めたそうですね。
はい。いろんなシンセや MIDI の音を試して、その音そのものがメロディや曲のアイデアをもたらしてくれました。だから作曲というより、アプリの中で聴いた音から自然に曲が生まれていった感じです。
──具体的にどんなアプリやソフトを使いましたか?Ableton のように外部から音をダウンロードしたりもしましたか?
最初は GarageBand でした。サウンドライブラリの中に入っている音をひとつずつ弾いて「これは好き」と思ったら、その音をきっかけに遊びながらメロディを考えるんです。同じことをベースシンセやドラムループ、いろんなビートでもやりました。ボーカル用のリバーブも全部聴いてみました。
本格的なプロデューサーに聞けば「Ableton を入れて、音をダウンロードして、自分でループやサウンドを構築して、パックを買って…」と言うと思います。でも私はそうすると迷子になってしまう。だから iPad や iPhone に最初から入っているメニューで遊ぶのがちょうどよかったんです。飛行機の中でもできましたし、本当に気楽に楽しめました。
──新しいことを学ぶときは、チュートリアルを見たりマニュアルを読みますか?それとも実際に触って試すタイプですか?
チュートリアルを見始めると「難しい」と感じて落ち込んでしまうんです。だから私にとって一番いいのは、とにかく開いて試してみること。どうしても分からないことがあれば Google で調べたり、友達に聞いたりしました。GarageBand はとてもシンプルなので、触ればすぐに試せるのが良かったです。
──最初にできたデモはどんな感じでしたか?
10秒くらいのアイデアだけのものもありました。でも、アルバム『Oh Snap』に入っている曲の多くは、そのデモの段階でかなり形ができていたんです。近いうちにデモを公開しようかとも思っていますが、けっこう完成度が高くて、アルバムにかなり近い仕上がりなんですよ。
もちろん一部の曲ではミュージシャンを呼んで演奏を加えたり、音をきれいにしたりしましたが、基本的なアイデアは最初のデモに全部ありました。だから今回は「最初に自分のコンピューターで作ったデモから遠ざけすぎないこと」を大事にしました。
──アプリやソフトは伝統的な楽器ではできないことができる一方、制約もありますよね。
私はこれまでずっと生演奏のミュージシャンと演奏してきたので、こういう制作は新鮮でした。特に大きかったのは「誰もいない環境で自分の声を録れる」ということ。パジャマ姿で朝に歌ったり、誰のためでもなく自分のためだけに歌うことができたんです。
スタジオだと「次の曲に進まなきゃ」「夜8時までに終わらせなきゃ」と時間を気にしますよね。でも自宅では時間が無限に感じられました。どうせ出すつもりもなかったし、曲も完成していない状態で、ただ遊ぶことができた。夜中の4時に時差ボケで録ったり、翌日に録り直したり、3か月後にもう一度やったりすることもできました。
もちろん制約もありました。ソフトの知識や自分自身の演奏スキルです。GarageBand から Logic に移行しましたが、結局「自分ができる範囲」でしか作れない。キーボードもベースシンセも自分で弾き、ビートやループも自分で組む。つまり一番の制約は自分自身でした。でもそれが逆に面白かった。普段はバンドがアレンジをしてくれますが、今回は「自分の頭の中のアレンジ」を形にできたんです。自分にそんなことができるなんて思ってもみませんでした。
──もしかしたら慣れない制作方法で起こったエラーのようなものがかえって面白い効果を生んだとか、そういうことってありましたか?
ありました。むしろ、全部そうだったと言えるくらい。小さな「ミス」や「問題」も、私はむしろ好きでした。ある曲では、冒頭の部分が切れてしまってファイルを見つけられず、別の方法を考えるしかなかったこともあります。ボーカルを2本同時に録って、最初は同じにしようとしたのに、微妙に違ってしまった。でも「違っている方がいい」と気づいて、それをわざとやるようになりました。たとえばスマホで録音する際に、マイクを置いた場所が近かったり、遠かったりして音が変わってしまったり、自宅の部屋、バスルーム、ホテルなど、様々な異なる環境の空間で録音したら響きが変わってしまったり。ピアノの演奏だって間違いだらけ。でも、すべてそのまま残すようにしました。
あ、大事なことを言い忘れていました。最後の曲は日本の俳句なんです。日本語で読んでみたくて、小川慶太と中村恭士に録音を送って「私の日本語、大丈夫?」と聞きました。恭士は「完璧だよ」と言ってくれたけど、慶太は「いや、“mizu no oto(水の音)”ってちゃんと言わなきゃ、もっとうまく出来るはず」って指導してくれました。その修正もちゃんとアルバムに入れてます。
◎ 古池や蛙飛び込む水の音
──その松尾芭蕉の俳句は、どうやって知ったのですか?
『Penguin Book of Haiku』という英訳の俳句集をなんとなく手に取ったんです。そこで芭蕉の俳句に出会いました。最初はただ気に入っただけでしたが、後からそれが俳句の中でも最も有名な句だと知りました。蛙が出てくる句ですよね。私は蛙がとても苦手で…。でもそのメッセージになぜだか惹かれたんです。
最初は意味が分からなかったんですよ。でも、何度も読んでいるうちにだんだん自分なりに理解できるようになりました。そこから6〜7種類の英訳を読み比べたりしました。次第に「日本語ではどう響くんだろう」と思うようになったので、ひらがなで書いてみたりもしました。日本語で描いてみたり、書き写してみたり(draw it or write it)。いろんな練習をしたんです。そこから即興で句を読むのを曲にしてみたり、句を読む声を多重録音して、重ねてみたりしました。それで出来上がったのがこの曲です。
この句は「伝統は静的で動かないもの」と思われがちだけど、実際には小さな蛙が古池を揺らすように動いていく。私は自分も蛙のようでありたいし、少なくとも蛙のような存在を尊敬しています。そして、この句は読むたびに異なる意味を感じることができる。それが芭蕉の美しさだと思います。
──蛙は怖いけれど、美しいとも感じていると。冒頭の『I Am A Volcano』でも “A Frog Jumps in the River” と歌っていますよね。今回のアルバムにおける「蛙」のイメージには特別な意味があるのでしょうか?
蛙はこのアルバムでとても大きな存在です。『Oh Snap』は私にとって「出すのが怖い」作品でした。ジャズとも言えないし、これまでの私とも違う。ディスコのような曲もあって、とても実験的です。だから、どう受け止められるか不安がありました。
蛙も同じです。怖くてたまらないけれど、同時に美しいと思う。欲望もそうです。強く惹かれるのに同時に怖い。美しくて欲しいけれど、恐ろしい。その二面性を蛙に重ねています。
◎ 日記のようにプライベートな音楽
──そもそもの話なんですが、もともとは自分のためだけに作っていた、とてもパーソナルな曲だったんですよね。なぜシェアしようと思ったのですか?
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