interview Tom Skinner:UKジャズ屈指のドラマー、トム・スキナーとは何者か?(14,000字)
2010年代末に新たな世代の「UKジャズ」が話題になった。その時にシャバカ・ハッチングス率いるソンズ・オブ・ケメットやメルト・ユアセルフ・ダウンのドラマーとしてトム・スキナーは存在感を放っていた。
その後、レディヘッドのトム・ヨークとジョニー・グリーンウッドが結成したザ・スマイルのドラマーに抜擢されて、一躍大きな注目を集めるようになった。
しかし、トムはいわゆるUKジャズの世代よりは少し年上で、彼には既にキャリアがあった。ジャズのシーンでクリーブランド・ワトキスやデニス・バプティストといったキーマンに起用されるだけでなく、マシュー・ハーバートやフローティング・ポインツの作品にも起用されていた。
しかも、トムはハロー・スキニーというプロジェクトで、ドラマーがエレクトロニック・ミュージックに取り組むという実験を早い時期に行っていたことでも知られた存在だった。
トム・スキナーはずっとイギリスのシーンの中でも重要人物だった。
そして、近年はインターナショナル・アンセムと契約し、即興要素強めのジャズ作品をリリースし、更に注目度が増している。
今回はインターナショナル・アンセムがこの取材のためにトムと僕を繋いでくれた。これまでなぜだか情報が無かったトムのバックグラウンドがようやく少し見えてきた。またUKジャズの解明のパズルのピースがひとつ埋まった。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 | 現場通訳:丸山京子
協力:International Anthem
◉ 先生はイアン・カー
――あなたはいつジャズを始めたのでしょうか?
僕がジャズを演奏し始めて、ジャズに興味を持ち始めたのは12歳か13歳くらいの頃だったと思う。僕は音楽一家の出身なんだ。母は素晴らしいコンサート・ピアニストで、僕の周りにはいつも音楽があったんだ。
その環境で育って、10代になってジャズを演奏し始めたんだ。学校には即興音楽を探求することに興味を持っている友達がいて、彼らとたくさん演奏していたよ。実際のところ、僕の学びというのはそういう友達と一緒に演奏することそのものだったんだ。毎日のように集まって練習して、グループで演奏して、それから若いうちからライブやギグもやってたね。
――あなたはどのようにジャズを学んだのでしょうか?
僕は音楽大学には行ってないし、ジャズ・スクールにも通っていないんだ。週末になると、Weekend Arts Collegeという場所に通ってた。そこはWACと呼ばれていて、ジャズのグループ・クラスがあったんだ。僕は3年間、毎週土曜日にそこへ通って演奏していた。そのクラスを教えていたのが、イギリスの有名なトランペット奏者のイアン・カー(Ian Carr)。あのNucleusのイアン・カーだよ。彼は3年間、僕の先生だったんだ。
――イアン・カーですか。すげーー。
それから、その場所で今でも一緒に演奏している友人たちとも出会ったんだ。僕のバンドでベースを弾いているトム・ハーバートもそこに通っていた。それからギタリストのデイヴ・オクム。僕たちは13歳くらいのときに出会って、それから一緒に演奏するようになって、毎週、できる限り毎日演奏する仲だったんだ。
◉ ジャムセッション時代のTomorrow's Warriors
その頃から、カムデン・タウンのJazz Cafeで行われていたTomorrow's Warriorsのジャム・セッションにも通い始めた。そこでジェイソン・ヤード(Jason Yarde)、ジュリー・デクスター(Julie Dexter)、ダニエル・クロスビー(Daniel Crosby)、そしてTomorrow's Warriorsを立ち上げたギャリー・クロスビーとも出会ったんだ。
それ以外のジャム・セッションにも行っていたけどね。だから若い頃から、僕は自分より年上で、自分より上手いミュージシャンたちと演奏していた。そういう人たちが僕をもっと成長させてくれたんだ。
それからライブもやるようになって、Tomorrow's Warriorsにも加わった。毎週末、彼らと演奏するようになって、何年もの間、Jazz Cafeでジャム・セッションをやっていたんだ。
僕はジャズ・スクールには行かなかったけれど、友達と演奏すること、ジャム・セッションに通うこと、そして自分のアイドルやヒーローたちのように演奏しようとすることから学んだ。
――イアン・カーが先生だったというのは少し驚きました。彼はどんなふうに教えてくれたのでしょうか?
本当に素晴らしかったよ。彼はグループ・クラスを担当していて、僕たちは曲を学び、その曲をどう演奏するかを学んだんだ。彼自身の曲もあったし、ジャズ・スタンダードも、その他のジャズ作品もあった。「Oleo」みたいなスタンダードやリズム・チェンジの曲もあれば、もっとフュージョン寄りのものもあった。覚えているのは、ビリー・コブハムの「Red Baron」を演奏したこと。それからイアン・カー自身の作品や、Nucleusの楽曲も演奏したんだ。
――そんな自由な環境でジャズを学べる場所があったというのは素晴らしいですね。
本当にそう思うよ。それに付け加えると、僕はジャズが好きだったけど、いつもジャズだけを聴いていたわけじゃなかった。ヒップホップも聴いていたし、子どもの頃はもっとロックもたくさん聴いていたんだ。僕も友達も、幅広い音楽を聴いていた。とてもオープンだったね。それは今でも僕が自分の音楽や音楽的な趣味の中で大切にしていること。あらゆる種類の音楽に対して開かれていること。それは今でも心がけているよ。
――さっきTomorrow's Warriorsという名前が出ましたが、あなたが参加していた頃は、今のTomorrow's Warriorsほど組織として大きくもなかったでしょうし、予算も今ほど潤沢ではなかったと思います。かなり初期のTomorrow's Warriorsだったと思うのですが、どんな環境だったのでしょうか?
いや、とてもよく組織されていたよ。もちろん、今と比べれば状況は違う。でも正直に言うと、この国、つまりイギリスでは25年前と比べても、今のほうが芸術に対する予算は少なくなっているんだ。芸術関連の予算はずっと削減され続けているからね。
でもTomorrow's Warriors自体は、ギャリー・クロスビーとジャニーン・アイアンズによって本当によく運営されていた。彼らが組織を率いていて、僕たちに毎週演奏する機会を与えてくれたんだ。そしてバンドとして技術を磨く機会も与えてくれた。
そのバンドのメンバーは、僕がドラムで、ソウェト・キンチ(Soweto Kinch)がアルト・サックス、トム・ハーバート(Tom Herbert)がコントラバス、アンドリュー・マコーマック(Andrew McCormack)がピアノ、デイヴ・オクム(Dave Okumu)がギター、ショーン・コービー(Sean Corby)がトランペット、それから素晴らしいシンガーのエスカ・ムトゥングワジ(Eska Mtungwazi)。エスカがヴォーカルだったんだ。それが当時のバンドだった。そして毎週日曜日にJazz Cafeで演奏していた。
だから本当に、僕たちはとても結束の強いグループになったんだ。本当に素晴らしいバンドだった。毎週演奏を続けていたことで、演奏スタイルにも独自の個性が生まれていったと思う。毎週一緒に演奏していたおかげで、僕たちは本当に強固なユニットになったんだ。
◉ 2000年代UKジャズのコミュニティとの交流
――トム・ハーバートとはずっと一緒にやってきたということですが、そうなるとThe InvisibleやPolar Bear、Acoustic Ladylandのメンバーたちともかなり近いところにいたと思います。そうしたコミュニティとは深いつながりがあったのでしょうか?
もちろんだよ。The Invisibleができる前に、僕とトム・ハーバート、それからデイヴ・オクムでJade Foxというバンドをやっていたんだ。ある意味ではThe Invisibleの前身のようなバンドだった。そしてそのバンドが発展してThe Invisibleになったんだ。実際、The Invisibleのファースト・アルバムに入っている曲の中には、その前のバンドで一緒に書いた曲もあったよ。
それから、Acoustic LadylandやPolar Bearのピート・ウェアハムやセブ・ロックフォードとも長い付き合いがある。
トム・ハーバートは今名前が挙がったすべてのグループに関わっていたし、さっきも話したように僕たちは学校も一緒だった。トムは、僕が定期的に演奏するようになった最初の相手と言ってもいい存在なんだ。僕たちは13歳くらいの頃から一緒に演奏していた。だから本当に長い歴史があるし、今でも一緒に演奏している。彼は僕のバンドのメンバーでもあるし、今回の日本ツアーにも一緒に来るんだ。
――The InvisibleやPolar Bear、Acoustic Ladylandは、2000年代のイギリス・ジャズにおいて非常に大きな功績を残したグループだったと思います。彼らがいなければ、今のようにイギリスのジャズが世界中で注目される状況は生まれていなかったかもしれません。当事者であるあなたに聞くのも少し変ですが、あの世代のグループが果たした役割や功績についてはどう考えていますか?
僕は、そうしたグループや、その他にもたくさんのバンドが、現在「新しいイギリス・ジャズ・ムーブメント」と呼ばれているものを築くうえで、本当に重要な役割を果たしたと思っているんだ。
ただ、僕にとってはそれは昔からずっと存在していたもの。そうしたグループや多くのミュージシャンたちが、今の世代のUKジャズ・ミュージシャンたちが活動できる土台を作ったんだと思う。もし前の世代、つまり僕たちの世代がいなかったら、今起きていることは実現しなかっただろうね。
だから僕にとって、UKジャズのムーブメントというのは特別に新しいものではないんだ。もしかするとイギリスの外の人たちにとっては新しく見えるのかもしれないし、今はより多くの人がここで起きていることに耳を傾けてくれているのは嬉しいことだよ。でも実際には長い間ずっと続いてきた流れなんだ。
他にも重要な役割を果たした人たちがたくさんいる。たとえばバイロン・ウォーレン、ジェイソン・ヤード、デニス・バティスト、コートニー・パイン。こうした人たちみんなが、現在のUKジャズの世代を形作るうえで大きな役割を果たしてきたんだ。
◉ 共演歴:バイロン・ウォーレン
――今バイロン・ウォーレンの名前が出たので、そのことについて聞かせてください。あなたは彼のアルバムにも参加していますが、どのように一緒に活動するようになったのでしょうか。また、彼からどんな影響を受けましたか?
僕たちが一緒に活動を始めたのは1998年。そのとき僕は18歳だった。当時、ラリー・バートリーというベーシストとかなり頻繁に演奏していたんだ。彼はバイロンのIndigoというバンドで演奏していて、その頃、バイロンが新しいプロジェクトを始めようとしていた。そこでラリーが僕をドラマーとして推薦してくれたんだ。それで生まれたのがIndigo。僕がドラム、ラリー・バートリーがベース、バイロン・ウォーレンがトランペット、そしてトニー・コフィがバリトン・サックスとソプラノ・サックスを担当していた。カルテットだったけど、コード楽器はなかった。ピアノもギターもなくて、管楽器2人とベースとドラムだけの編成。あのバンドは、僕がこれまで参加してきたグループの中でも特に好きなバンドのひとつなんだ。今でも時々一緒に演奏するよ。頻繁ではないけれど、今でも共演している。
それからバイロンは、作曲家としても僕に大きな影響を与えてくれた存在なんだ。彼は本当に多作な作曲家で、膨大な量の音楽を書いている。そして世界中のさまざまな音楽について非常に深い知識を持っていた。僕たちは1998年から活動を始めたけれど、最初のライブをやる前に1年間ずっとリハーサルをしていたんだ。僕は彼の家に通って、一緒に新しい曲を演奏したり、作り上げたりしていた。本番のライブをやる前に、丸1年間それを続けたんだ。
そしてようやくライブを始めて、そのバンドで2枚か3枚のアルバムを作った。本当に素晴らしいプロジェクトだった。そして僕にとって彼は、UKジャズ界の「知られざる英雄」のひとりでもあるんだ。僕はバイロン・ウォーレンこそ、イギリスが生んだ最高のトランペット奏者だと思っている。そして、素晴らしい作曲家なんだ。
――彼の音楽にはさまざまなアフリカ音楽の要素が入っていますし、かなり深くアフリカ音楽を研究しているアーティストだと感じています。そういった部分からも影響を受けていますか?
ああ、間違いなく。アフリカ音楽だけじゃなくて、アジアの音楽、とくに東南アジアの音楽からも大きな影響を受けている。彼はガムラン音楽にすごく興味を持っているし、バリ島やジャワ島の音楽も深く研究している。さっきも言ったけど、彼は世界中の音楽について膨大な知識を持っているんだ。たくさん旅もしているし、世界各地を訪れて、それぞれの土地の音楽を学んできた。だから彼は本当に豊かな知識を持った人なんだ。そして僕もそこからたくさんのことを学んだ。音楽を作る際の彼のグローバルな視点からも多くを学んだし、それは僕にとってすごく刺激的なものだったよ。
◉ アフリカ音楽への傾倒
――あなたの音楽を聴いていると、リズムの言語感覚の中にアフリカの音楽的伝統を感じることがあります。実際にアフリカ音楽やリズムを研究したことはありますか? また、アフリカ出身のミュージシャンから直接学んだことはありますか?
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