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エビデンスは、患者さんに届かない。

正しくはエビデンスのみでは、です。
患者さんの「考え方」は、その人の属人的な背景だけで構成されていない

こんにちは いきなり偉そうですすみません
昨日、飲み会で不意に聞かれた時に、口頭でうまく説明できなかった
込み入った内容を書いていきます。

理学療法と、哲学の話です。

以前の僕は、こう思っていました。
「科学的に説明できないことは、あまり意味がない」と。
エビデンスがあって、ガイドラインで推奨されていて、再現性があって、きちんと説明できること。

それこそが医療者の拠りどころで、それを患者さんに伝えるのが責任だと信じていました。

でも最近、その考えが少し揺らいでいます。というか解釈の幅?ってか、、
今日はその揺らぎについて、書いてみます。

「正しさ」を伝えることが、押し付けになる瞬間

臨床をやっていると、こういう場面によく出会います。

心疾患や脳卒中で入院された患者さんに、禁煙や生活習慣の改善をお伝えする。
これは、医学的にはまず間違いなく正しい。
続ければ再発のリスクは下がるし、将来的なQOLの低下も防げる可能性が高い。

伝える義務も、明確にあります。

でも、です。その「正しさ」を、そのまま届けたとき。

患者さんによっては、それが本人の望む生き方を、真っ向から否定することになってしまう。

「あなたの今までの暮らし方は間違っています」
と言っているのに、近くなる瞬間があるんですよね。

医学的な正しさと、その人にとっての幸せが、必ずしも一致しない。責任感のある医療者ほど、この葛藤にぶつかるんじゃないかと思います。手放しで「好きにしていいですよ」とは言えない。でも、正論をぶつけるだけでは、その人は動かない。むしろ心を閉ざしてしまう。

そもそも、病院にいる時点で「健康でない人」にされているように感じる

この葛藤を考えていて、ひとつ気づいたことがあります。

患者さんは、「病院にいる」というだけで、構造的に「健康でない側の人」に置かれてしまうんですよね。

これは、いろんな意見になると思うので、
医学的な健康・不健康の話とは、分けて考えてほしいのですが。病気があるかどうかとは別のレイヤーで、"場"が役割を決めてしまう、という話です。

同じ人でも、病院という場に入った瞬間、「治療を受ける患者」「管理される対象」という役割を、自動的に割り当てられる。
本人の実際の状態や価値観と半分独立しながら、環境のほうが「あなたは健康でない人ですよ」という前提を作ってしまう。

そして、ここが怖いところが、私たち医療者は、その病院という構造の中にいるからこそ、目の前の人を「患者」としてしか見なくなりがちです。

本当は、その人には病院の外での顔がある。
仕事をして、家族を支えて、趣味があって、誰かにとって大切な存在で。
すごく多次元的な存在のはずなんです。
なのに、「病院にいる」という構造が、その人を「患者」という一次元に圧縮してしまう。

これは、一種の極端な一般化だと思うんですよね。「この人=病気の人」「この人=リスク管理の対象」という一面だけで、その人の全体を塗りつぶしてしまう。

その人の「考え方」も、構造でできている

もう一歩進めてみます。

患者さんが「タバコはやめたくない」「今のままでいい」と考えるとき。それは、その人の意志が弱いからでも、知識がないからでもない、と思うんです。(その要素はありつつも)

その人の価値観は、これまで歩んできた人生、育った文化、家族や地域との関係、置かれてきた環境という「構造」の中で、長い時間をかけて形づくられてきたもの。
考え方って、その人の内側から勝手に湧いてくるものじゃなくて、その人を取り巻く構造によって、かなりの部分が決まってくる。

だとすると、目の前の一人だけを見ていても、本当のところは分からないんですよね。

「なぜこの人は、そう考えざるおえなかったのか?」。

その背景や構造のほうを想像しないと、その人を理解したことにはならない。

仏教の「縁起」の考え方にとても近いです。すべては単独で存在するのではなく、さまざまな縁(関係性・条件)の中で立ち上がっている、という見方。人の考え方も、健康という状態も、その人だけに帰属するものではなく、周囲の構造との関係の中で生まれている。そう捉えると、患者さんへの見方が、少し変わってくる気がします。(専門の人間違っていたら教えてください)

だから、哲学やリベラルアーツがいる

ここまで来て、思うんです。

私たちの拠りどころである西洋医学は、基本的に「白黒つける」学問です。※全部がそうでない 
エビデンスがあるか、有意差があるか、正しいか正しくないか。それはとても大切な足場で、否定する気はまったくありません。

でも、人間も、その人が置かれた構造も、白黒つかないことのほうが、はるかに多いですよね。

答えの出ない問いを、目の前でぐるぐると考え続ける。哲学って、そういう学問だと僕は捉えています知らんけど。
人の営みの背景を見る歴史、善悪の手前で立ち止まる倫理。こうしたリベラルアーツは、この「白黒つかなさ」に耐えて、人を多次元的に捉えるための足場になってくれる。

専門知識だけに固執していると、視野が「西洋医学という構造」の中に閉じてしまう。その枠の外に出て、患者さんを構造の中に生きる一人として見るために、哲学的な思考の幅が要るんだと思います。

まとめ

今回は、理学療法に哲学が必要だと思う理由を書きました。

ポイントを振り返ると、こんな感じです。

・医学的な正しさをそのまま伝えると、その人の生き方を否定する押し付けになることがある。

・患者さんは「病院にいる」という構造だけで「健康でない側」に一般化されやすい(医学的な健康・不健康とは別のレイヤーの話として)。

・その人の考え方も、健康という状態も、その人だけのものではなく、周囲の構造の中で立ち上がっている。

・だから、白黒つける西洋医学だけでなく、白黒つかなさに耐える、というか共存する哲学やリベラルアーツが、人を多次元的に見るために必要になる。

医学的な正しさを、捨てる話ではありません。正しさは持ったまま、それを「その人の構造」に合わせて届けられる幅を持ちたい。目の前の患者さんを、孤立した個人ではなく、構造の中に生きる一人として見る。

その辺が、、、私たちを"業界の押し付け"から、少し自由にしてくれるんじゃないかと思っています。

皆さんは、患者さんの「考え方」の背景に、どんな構造を想像していますか?

最後までお読みいただき、ありがとうございました!それではまた!

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