水戸黄門にみる視聴者の変化
ボクは時代劇が好きだ。幼稚園の頃、友達の祖父母と一緒に時代劇を見ていると、友人が、「そんな年寄りっぽいの見るのは止めて遊ぼうよ!」、と幾度となく不満をぶつけられたのを思い出す。古い作品では大江戸捜査網、最近では中井貴一さんが主演の雲霧仁左衛門が好きである。ボクは80代の母の世話をしながら生活をしているが、夕食時に時代劇の再放送を見る。中でもBS-TBSの水戸黄門を見る事が最も多い。毎日の様に続けて鑑賞していて、変化に気が付いた。とはいえ、正確に統計を取った訳ではない、あくまでも何となく感じた話である。因みに徳川光圀が中納言であったことから、その唐名である黄門と呼ばれていた事を意外と皆さん、ご存じないのは興味深い。
テレビ時代劇として放送された作品で、徳川光圀役は6代いるが、我々にとっては初代:東野英治郎(1969年~1983年)、2代目:西村晃(1983年~1992年)、3代目:佐野浅夫(1993年~2000年)が印象深い。ボクが母と共に連日、流し見をしていた所、時の流れと共に変化が現れたのを感じた。これは初代と2代目を比べると顕著になる。ボクが特に感じたのは以下三点。
言葉遣いが平易になった
初代のシリーズでは普段使わない様な職種等が突然出てきて一瞬、「???」、となる事が時折あった。まあ、ボクに学がないと言われればそれまでなのだが、極端に書けば森鴎外の小説を読んでいる様な、文語調を彷彿させる言い回し等がたまに見受けられ、気を抜いていると全ての単語を理解出来ないという間抜けな状態になってしまう。翻って西村シリーズではどれだけ聞き流しても、理解出来ない単語や表現は先ず出てこない。
基本的に人を殺さない
ここは正確に覚えていないのだが、少なくとも西村シリーズの中盤からは基本的に黄門様ご一行は人を殺さない。特に最後の大立ち回りのシーンでは、暴れん坊将軍よろしく峰打ちを強調するために刃を返すシーンがアップになる。かつての時代に於けるコンプライアンスか視聴者のクレームかは分からないが、設定が江戸時代の初期にしては手ぬるく感じる。
ストーリーが単調
西村シリーズでは単純。終盤で、”悪役と黄門様一行が対峙→大立ち回り始まる→助さんが印籠を見せる→全員、平伏”、となるのがほぼ全てである一方、東野シリーズでは物語に起伏があり、特に最後の大立ち回りの前後に変化が多かった。毎回、助さん・格さんが単純に印籠を見せるのではなく、ご当地の殿様や城代家老、時には公家が出てきて黄門様の紹介をする等の挿入部分があったりして、それがスパイスとなってマンネリを打ち消してくれるので、結構面白かった。また、お別れ場面の前に短めのストーリーが入っている事もあり、ヴァリエーションを楽しめた。西村シリーズでは印籠が出てくる時刻ですらほぼ同じであり、意外性ゼロだ。
結局…
要は全体的に東郷シリーズに比べると、その後のシリーズは面白くないとボクは感じた訳である。特にストーリーと展開の平坦化は面白みを著しく下げたと感じる。試行錯誤を続けた結果、この様になったのか? はたまた、手抜きでそうなったのか? 本当の所は分からない。
あくまでも推測に過ぎないが、もしこれを多くの視聴者が好意的に受け入れたとするならば、悪い表現をすれば視聴者の知的レベルが下がったとも表現出来る。かつてテレビが登場した折に、"一億総白痴化(白痴は現在では差別的と捉えられる事もあろうが、あえて当時の表現を使用)"なんて言葉も使われた。確かに単なる娯楽の時代劇ではある。とはいえ、余りにも単純化しては視聴者の思考レベルは下がる一方だと思う。分かりやすさは大切ではあるが、単調さは褒められたものではない。
