2. 天 下 ~その三
天下とは何か?
言い様はいくらでもある。
相手が今、”天下”をどのように捉えているか?
その捉え方によって、言い様も変わってくる。
今、殿は”天下”というものを”うさんくさいシロモノ”だと思っている。
あるいはそういうフシがある。
つまり懐疑的になっておられる。
”いよいよ殿が天下を獲る時がきましたな!”と皆口口に言うが、
その中に”天下とは何か?”をはっきり言える者がいないと殿は言う。
なぜ言えぬかと言うと、”天下とは何なのかが、わからぬから”だと。
”天下とは何か?わからないからそれを言える者がいない”
”そんなよくわからんものをどうやって獲れと言うのか?”
と。
居住まいを正し、正信は両の手を畳に置いた。
(ここは”天下”に悪者になってもらうしかあるまい)
「されば、殿」
頭の整理を終え気持ちが定まっていた正信は、心のままに
言葉を発した。
「天下とは人の心がつくりし妖怪、と心得まする」
ひじ掛けに左半身を預け、目を閉じた家康殿は、少しだけ顔を俯け、
クッと笑った。
(どうやらお気に召されたようだ・・・)
心中、安堵しながら正信は言葉を継いだ。
「故に天下を獲るとは、妖怪退治に他ならぬと愚考つかまつりまする」
気に入らない時、渋柿を口中一杯ほおばったかと思うほど渋い表情を
なさる家康殿は、今、正信の目の前で目を閉じたまま、
ニヤニヤしている。
そのまま家康殿は言った。
「不死身なのであろう?その妖怪は」
「御意」
「なら退治できぬな」
「抑える事はできまする」
「その後は?」
「・・後?でございまするか?」
喉元までせりあがってこようとする動揺を、正信は下腹一杯に力を入れ、
無理やり抑え込んだ。
「抑えた後よ、抑えて、それから?どうなる?」
「抑え続ける為に妖怪と組み合い続け、時には戦う事も必要となりまする」
思わず、というか期せずしてというか、正信は今の自分の状態そのままを
口にしていた。
とたんに目をつぶったままニヤけていた家康殿は、一瞬でつまらなそうな
渋い顔になった。
が、正信は慌てない。
むしろ(この反応で良い)と心中、なぜかほっとしていた。
半信半疑ながら正信は、この殿は天下を獲るおつもりが無い、もしくは
天下を獲ろうとするお気持ちを切り捨てようとなさっている、
と見立てていた。
”天下”から遠ざかろうとしている殿の心を、なんとか天下に向き合わせねばならん、とそう思う正信にしてみれば、ここは物見遊山な気持ちで
聞き流されては困る所だった。
だが渋い表情で開いた家康殿の口から出てきたのは、か細い声だった。
「・・そりゃ大変な苦労じゃの・・組み合いながらなおかつ戦うとな」
「さよう・・しかもこの相手、誰でも組み合い、戦えるというような相手ではござらぬ」
「そうかぇ?」
と興味無さそうに、家康殿は目を閉じたまま呟く。
「何せ”天下”、でございますれば、相手は」
正信が心持ち、特に”天下”に力を込めて声を張ると、家康殿は目をつぶったままの顔をしかめ、目の前の空(くう)を左手で振り払うように振った。
「退治できぬまでも抑えておく必要がございます」
「大変なお役目じゃ」
「はい、しかもそのお役目を果たせるお方はこの日の本に一人しかおられぬとそれがし考えまする」
「 陣中見舞いを贈らねばの、その御仁に」
「恐れながらお贈りになる必要は無いと存じまする」
「ほお・・なぜじゃ?」
「贈るとは第三者に対して行うもの」
「じゃから組み合い、戦うその第三者の御仁に」
「その御仁は第三者ではありませぬ」
「・・・・・・」
「殿」
「断る」
「・・・いささか早うござりまするな」
「断るなら早い方がええぎゃあ」
「殿!」
「嫌じゃ!」
「嫌ですむ話ではござらぬ!」
「なんでわしがそのような化け物と組み合わねばならんのだ?」
なおも目をつぶったまま家康殿は雄叫びをあげた。
「他に組み合える者がおらぬからでございます!」
「おるわ!奥州の政宗がおるではないか!」
「あのような若造は、たちまち妖怪に取り込まれるが落ちで
ございましょう!」
「なら加藤清正じゃ!あやつがおる!」
「天下を統べる器にござらぬ!」
「そんな事はない!清正なら取り込まれる事もなかろう!」
「取り込まれなくとも、たやすく取潰されましょう!」
「今戦っておる朝鮮の城!
最初の籠城戦を少ない兵と米で守り抜いたは清正ぞ!」
「戦は時の運、運がたまたま向いただけの事にございます」
「その運を引き寄せる勝負強さを持っているのが清正よ!」
「殿には随分と清正殿をかっておられるようですが、太閤殿下の腰巾着
だったど田舎出のにわか侍ですぞ?」
ここで家康殿はしばらくぶりに目を開け、どんよりした眼を正信に向けた。
「お前、ひどい事を言うの」
「殿も薄々思っている事を言うたまで」
「わしがいつ清正を巾着呼ばわりしたきゃあ!」
「言葉にはせねど思っておいでにござる」
「貴様!言うてもおらぬ事をぬけぬけと!」
「この正信にはわかり申す!」
「言うに事欠き巾着とは何事か!あんなバカでかい巾着があるかっ!
使い物にならぬわ!巾着の用をなさぬ!」
「使い物にならぬとはまた殿もひどい事をおおせになられる」
「お前が言わせとるだぎゃあ!」
「いや殿の本音が出たに過ぎますまい」
「おのれ、よくも!・・あ!」
「・・何でござるか?」
家康殿はポンと一つ自分の右手の平で左の手の平を打った。
「正則がおったゎ・・・」
「殿・・・」
正信は片方の手で自分の顔半分を覆った。
「福島正則!どうじゃ?」
「どうじゃと言われましても」
「そうか!正則!おお!」
「おおではござらぬ!」
「なんでじゃ?きゃつこそ一代の豪傑でゃにゃあか!」
「ケツの毛穴までさらされましょうな、体中妖怪に毛を抜かれて 」
「おま・・ちと下品が過ぎよう?」
「つまりは正則殿に品がないという事でござる」
「なんとえげつない事を申すか」
「品の無い男を買いかぶるは同じく品無き証」
「つけあがるのもたいがいにせよ!わしにも品が無いと申すか?」
「・・おありとお思いめされておいでか?近頃下腹の具合は如何で?」
所かまわず放屁しまくるのを2度3度と自分に諫められた事を、正信は
家康殿に思い起こさせた。
「・・まぁ・・あれだ・・品があるの無いのそのような事はどうでもよい」
「さようにございますか」
「品と申さば、大大名を巾着呼ばわりするわ、ケツの毛穴などと言うは、
お主こそ品性下劣である!」
「結構にござる、元々鷹匠上がり、品などとは縁もゆかりもござらぬ」
「貴様なぞを家来にしたがわしの運のつきじゃの!」
「殿のご運に関われるとは、この上なき誉にございまする」
「ああ言えばこう言う・・」
「殿に鍛えていただきましたゆえ」
「うるさい!わしまで下劣と思われるわ!」
「殿あってのこの正信にございますれば」
正座のまま正信は深々と頭を下げた。
「ところでなんで奴だけ毛を抜かれるのだ?」
「は?」
正信は顔を上げた。
「正則よ、妖怪に毛を抜かれるのであろう?」
「かの御仁の毛を思い出して下され、黒々と太い毛にござる」
「妖怪というのは太い毛が好きなのか?」
「存じませぬ、ただ真っ先に目につくからにはそれを抜こうとするのでは
ないかと」
興覚めした表情となった家康殿は、プイと横を向いてしまった。
「もうよいわ!いつまでもおみゃあの与太話につきあっておれん!」
「これは失礼つかまつりました、てっきりそれがしは殿の与太話に
それがしが付き合っておるものとばかり思っておりました」
「・・・お主いつか打ち首にしてくれるゆえ楽しみに待っておれ」
「承知つかまつりました、待ち遠しき限りにございまする」
「わしこそ待ち遠しいわ!その時が!」
「殿」
「なんじゃ?」
「妖怪は避けて通れませぬぞ?」
「正信よ」
「はい」
いつの間にか身を乗り出していた家康殿は、元の肘掛けに左半身を預ける
姿勢に戻ると、正信の目を真っ直ぐ見すえ、声を落として低く吐いた。
その声音は狭い室内に重く響いた。
「わしは天下などというものを獲ろうという気持ちは毛ほども
持ってはおらぬ」
正信は畳の上へと顔を伏せ、改めてそこに手をつき、同じように低い声で
言った。
「理由をお聞かせ願いとう存じまする」
「聞いてどうする?」
「僭越ながらそれがし、天下を素通りしては徳川家は先に進む事はできぬ、と思いまする。統べる者がおらねば天下は乱れる、この日の本にお家は数
あれど、天下を統べる事ができるは今や我が徳川家以外には無いと
心得ます。
もし徳川家が統べる事をせず、他家が統べるならば、大小あれど必ずや
天下に乱れ生じ、その禍は少なからず徳川のお家にも降りかかって参り
ましょう。禍被るを受けてなお天下統べる事なさらぬとは何ゆえか?
正信には解せませぬ」
途中から家康殿は、目線をすえていた正信の額から外して伏せた。
伏せながら家康殿は思った。
(剃り残しがあるぎゃあ・・・)
殿が目を伏せる気配を額で感じ取りながら正信は言い終えると、二の太刀
を抜かんと、心の鞘に意識を集中していた。
これまでの言い合いなど狸と狐が化かしあいながれじゃれ合ったに過ぎぬ。
(正念場だ)と正信は思った。
ふと、殿の目線を額で感じ、正信は顔を上げ、家康殿の視線を受けた。
(あ!)と正信は思った。
正信と視線が合うと家康殿はニヤリと笑ったのだ。
(これは・・・)と正信は、心の中で鞘を持った左手の力を抜き、柄に
そえた右手を鮫皮からゆっくりと離した。
未だかつて、論戦で家康殿がこういう顔をした時、正信は一度として
勝てた試しが無かった。
