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2. 天 下 ~その六

どこからか聞こえてくる鈴虫の声音に合わせて舞うように、大写しに
壁に映った影が揺れた。
殿のその影を見るともなしに正信はぼんやり眺めてから向き直った。

閉め切った室内で、風もないのに行灯の灯はゆるりと舞った。

二人だけの室内を彩るみかん色が、自らその濃淡を、時折濃くまた
恥じらうように薄くなったりしている。

「殿下はどのように思い描いてらしたんです?天下を?」

正座して正信がそう聞くと、何やら考え込んだまま肘掛けを引き寄せ
ていた家康殿が、それに左半身を預けてから口辺に笑みを浮かべて
答えた。

「天下とはすなわち人の心じゃ、とそうおおせられた」
「ほお・・人の・・」
「人の心がつくりし妖怪、とお主は言うた。
殿下は人の心そのものじゃ、と」
「なるほど、妖怪というのも人の心の一面を照らした結果現れしもの、
とも言えまするな・・」

「そうじゃな・・今わしの目の前におる奴も、妖怪の類か?と思わせられ
る事がしょっちゅうある」
「またひどい事を」
「たぬきかと思えばきつねじゃと思える時もありながら顔は蛙に似ておる」
「それらは妖怪ではのぅて動物でござる」
「今度は猿か」

「・・言葉尻をとらえないでいただきたい」
「されど人なのであろう?」
「当たり前にござりまする、それがしは人にございますれば」
「なのにたぬきじゃきつねじゃ蛙じゃ猿じゃと思わせよる、
つまりは妖怪だからじゃ」

「なんともご無体な事を申される」
「いずれ尻尾を掴んでやるゆえ覚悟しておれ」
「それがしの尻尾は既に殿に献上致しておりまする」
「いらぬわ、そのようなもの」
「それは残念、悲しき限り、無念極楽にございまするな」
「・・念が残らば地獄の沙汰、か・・」
「御意」

つと鈴虫の声が止んだ。

「してお主の念はどのような?」
「無、にて候」

灯は揺れ続けていた。

「居心地はどうじゃ?極楽の」
「極上にござる」
「それは重畳(ちょうじょう)」

いつの間にか家康殿は、その揺れに見入っていた。

「正信・・」

我知らず、声が低い声音に変わった。

「なんでございましょうや?」
「これよ」
「は?」
「これじゃ」
「何がこれでございまするのか?」
「これぞ人の心ぞ!」
「はぁ?」

殿の視線を追ってから正信は言った。

「行灯・・が?、でございまするか?」

もう家康殿の目は行灯から離れていた。
振り向いて遠くを見るよう部屋の端にあたる襖の戸に目をやり、
しばらく黙ってから言った。

「太閤は天下とは人の心そのものじゃと言うた」
「その通りと、それがしも今は思えまする」
「見よ」

家康殿は、襖に目をやったまま伸ばした手を見ずに、右手を後方に、
恐らくは行灯を指さした。
伸びてきた家康殿の手が顔面にぶつかりそうになって正信は、
慌てて体を反らしてよけた。
殿の右手は、かなりずれた所を指さしていたが正信は言わず、
(多分行灯を指さしているのであろう)と見当をつけ、
行灯を見た。

「み・・・見ました」
「それが天下よ」

思わず殿を顧みて”はあ?”と言いそうになり、すんでの所で首が回らぬ
よう抑えた正信は、大車輪で思考をめぐらせた。

(声音が変わった所から殿は真剣になっておられる、真剣になった時の
殿は話が通じぬという事態が一瞬でも出来すると、途端に機嫌が悪くなる、
そうした瞬間がとにかくお嫌いなのだろう、ここは解ったふりをすべき
なのは解っているがどういう風なフリをすればいいのだ?
行灯が天下という”とんち話”や謎かけなど聞いた事もない)

「正信!」
「ははあっ!」
「解かるか?」
(何をだ?)

襖に目を据えている家康殿と、壁際の燭台に灯されている行灯の方を向いている正信とは、はす向かいで斜めに、互い違いの方向を向いている。
家康殿と斜め背中合わせとなっている正信は、家康殿の顔の斜め後方へと
尻を突き出し、行灯に向かって平伏した。

「ははあっ!」
「天下とはつまりはそれよ!」
「ほああっ!」
「解るであろう!」
「恐れ入りたてまつりましてございまする!」
「そうか!解ったか!」
「はええっ!」
「そういう事だ!解るな?」
「ひええっ!」
「解ったな?解ったのか?」
「も!・・・・・・」
「・・・・・なんじゃ?”も”というのは?」

襖に向かって右手を上げ、何か言おうとしていた家康殿は、手を下げると
その方向へ首を回し、逆向きに平伏している正信の尻を目の前に見て
言葉をかけた。

「・・・正信・・腹の具合でも悪ぅなったか?」
「申し訳ござりませぬ!」
「・・申し・・なに?」
「それがし!どうにも全くもって何をおっしゃっておられるのか、
 何一つ髪の毛一本ほども解り申さず!誠にもってふがいなき事にて!」
「・・あ・・・ん?・・じゃと?」
「頭に血のめぐらぬこの正信めをどうかお許し下されませっ!」
「血がめぐらぬ上にお主、さかやきに剃り残しがありゃあど?」
「・・・は?」
「おのれわしをたばかった上に向けたままのケツをなおもそのままに
おるとは!不届き千万はなはだしくもどえりゃあ不埒もんどくらぁあ!」

正信は慌てて尻を下げ、家康殿の方へと向き直りひたすら平伏した。

「これはご無礼を!」
「極まりなし!」
「申し訳ござりませぬ!」
「からっケツなど向きゃあおってぎゃあ!」
「お許しくだされ!」
「その痩せた尻で競べ馬に出てみりゃあ!生涯勝てにゃあわ!」

先日朝廷で行われた競べ馬で家康殿がしこたま負けた事など知らぬ正信は、
自分が競べ馬に出なければならぬという理由がこれまたわからず、自分の
人としての面子はこの際どうでも良いと思い、こう言った。

「め!・・面目なき次第にて!」
「唐変木めが!」
「ははあっ!」

痛いほど額を畳に擦り付けた正信は、後ろ頭の上の方で狭い室内に響く
殿の乾いた笑い声を聞いた。

いつの間にか家康殿は、立ち上がって仁王立ちとなっていた。

「かっかっかっかっ・・わかったか?」
「は!」

正信は、平伏したままだった。

「わしをたばかるとこうなるんだぎゃあ!」
「ははっ!しかしながらこの正信、殿をたばかろうなど露ほども」
「わかっておるわ」

つまらなそうに言い捨て、家康殿は襖を閉めた戸の方へと歩き、
三歩も行かぬうちに、戸のへりの端に立った。
襖の向こうは外、昼間であればここを開けると遠くに嵐山が見える。
一瞬開けようかと思った家康殿だったが、止めた。
夜も更けた今、開けても嵐山は見えまい、と思ったからだった。

山を遠くに望めるここからの景色が家康殿は好きだった。

正信はその場で居住まいを正し、家康殿の三歩後ろから正座して
その背中を仰ぎ見ていた。

「絶えず揺れとるんぎゃあ・・・」

正信は少し首を傾けた。

「その行灯の灯よ・・絶えず揺れとる・・ずっと同じように揺れとるように
見えるがちょっとづつ違った揺れ方をしよる・・絶えずな・・」

鈴虫が、また鳴き始めた。

「それがわしには人の心に見えたのよ・・太閤に言わせれば人の心、
すなわち天下じゃ」

正信は黙って再び平伏した。

「同じ形に見えながらわずかでも同じ形で揺れている時、というのが
無い・・風もないのに揺れる・・風があればあったでまた揺れる・・
だが寸分たがわず同じ形で揺れている事がない・・
一度たりとも・・・」

正信の額は畳についたままだった。

「灯とは事象であって形ではない・・形あるように見えて形として
定まる事がない・・事象は絶えず動きよる・・御そうとすれば絶えず
御し続けねばならぬ・・お主先に言うたな・・・妖怪を抑え続ける為
には組み合い続けねばならぬ、と・・・」

正信は平伏したままなお強く額を畳に擦り付けた。
振り向く事なく、襖を見つめたまま家康殿は続けた。

「動き続け、定まった形なきものを御すなど・・人は・・何かを絶えず
永遠に続ける事はできぬ・・例え何人もの人が代わる代わる続けようとも、幾度も代わっているうちに糸が切れる時は必ずやってくる」

少し黙ってから家康殿は、再び口を開いた。

「正信」
「は」
「天下を統べるとな?」
「・・はい・・」
「統べるとはすなわち御す、とわしには思える・・どうじゃ?」
「・・御意にござりまする」
「相違ないと?」
「ござりませぬ」

鈴虫の声は消えていた。
家康殿は振り向き、平伏している正信を見下ろすと言った。

「思うか?」
「は」
「人の心を御せると・・思うか?」
「・・・・・」

即座に”御せまする”とは言えなかった。
されど”御せませぬ”と言って終わらせるわけには行かなかった。

殿の気持ちを天下に向かわせねばならぬ。

その一心で正信は長い間額をつけ続けた畳から頭を上げ、真っ直ぐに
家康殿を見上げて言った。

「御せませぬ」

そして(勝てぬまでも)と言葉を継いだ。

「されど・・」

畳の跡が額に赤く映えている。
家康殿は何かを考え込むかのような黙然とした表情で問い返した。

「・・されど?」
「・・人は御せずとも人の世は御せまする」

戸縁に仁王立ちとなったまま、家康殿は正信を見据え、凝視した。
し続けた。

暗い輝きを放つ二つの眼にさらされながら正信は、正座のまま、
身じろぎもせず自分の目の前の空に目をすえ続けた。

やがて目線を外して家康殿は言った。

「つまらぬ」

正信は黙ったまま視線をやや落とし、わずかに首を垂れた。

「”天下”を”人の世”に言い換えただけじゃ」
「・・・・・・」
「言葉遊びに過ぎぬゎ!」
「恐れながら天下は人の世の上にありて、二つは同じモノではないと
心得まする」
「ほぉ・・・」

目線を逸らしたまま、家康殿は少しだけ顎を上げた。

「人の世とは人の心が集まりしモノ・・違うのか?」
「いえ・・おおせの通りと存じまする」
「人の心が集まって人の世となる」

家康殿の視線は再び、ひたと正信の顔に注がれた。

「御せぬ人の心が集まれば、なお御し難くなるだけではにゃあか」

正信は一度畳に手をつき、一礼してから頭を上げると静かな声で
きっぱりと言い切った。

「恐れながら”否”と申し上げ奉りまする」

家康殿の目が細くなった。

「・・否?」
「はい」
「ケツだけでなく舌もカラ舌なのではあるまいな?」

言いながら家康殿は正信をねめつけ、ゆっくりと近づいた。
頭を動かす事なく正信は、真っ直ぐ前を見たまま答えた。

「尻には全くもって自信がありませぬが、舌は少々」

どさり!と正信の目の前、畳の上直に家康殿はあぐらをかいた。

「・・今の・・尻が痛くありませなんだか?」
「・ちょ・・ちょっとな・・えい!そんな事はどうでも良い!」
「は!」
「も・・たた・・申せ!」

(続く)


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