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あの日の選択〜エリート街道から閉鎖病棟へ。20代の挫折と、僕の再出発。各駅停車で、プロフェッショナルへ。

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#運転士
#公認会計士
#税理士
#あの日の選択

どうも、タカのメイメイと申します。

※このNote記事はカワムラさん主催の「ちび創作大賞」への応募作です。

https://note.com/chatgpt_ysd/n/n14070626dc46 

頭の中に浮かぶ様々なものを、言葉として残したい!そう思い、noteを初めてみました。

1作目は僕の過去を紹介できればと思います。

初心者なので拙いところもございますが、何卒宜しくお願いします!!



僕は地方の田舎出身だ。 コンビニまでは片道徒歩1時間、小学校までは片道徒歩1時間弱という環境で育った。

地元の幼稚園、小学校、中学校、高校を卒業した後は、憧れだった東京の大学へ進学した。 大学受験では努力が実を結び、地方の国立大学の合格をいただいた。しかし、都内への憧れもあり、同じく合格していた東京の私立大学を選択した。


当時の僕には、鉄道の運転士になるという夢があった。 だが、公立の進学校へ進んだこともあり、その夢は一度諦めざるを得なくなった。


それでも夢の形を変え、鉄道に関連した仕事に就くことで、間接的に鉄道に関わりたいと考えるようになった。 大学生活では1年生の頃から、鉄道関係の企業へ就職することを見据えて逆算し、積極的に行動を起こした。


当時の目標はJR東日本企画。「JR SKISKI」などの広報を手がけている会社だ。 就職活動で少しでも有利になればと思い、資格の勉強も始めた。


まずは日商簿記3級。 大学の授業に簿記があったため、それに関連して挑戦してみようと考えた。


大学と資格の学校TACが提携しており、学内に講師が派遣されて直接教わる形式だった。 その時の講師が、公認会計士の方だった。

まだ働いた経験はなかったものの、企業のビジネスの結果を数字で論理づけていく過程や、貸借が一致したときの達成感に触れ、僕は次第に簿記の魅力へと引き込まれていった。 結果は、90%を超える正答率で見事に合格。

この成功体験を胸に、2年生のときには簿記2級へ挑戦した。


少し話は逸れるが、2年生からは別の会計士の先生による監査論の講義が始まった。 そこで公認会計士の独占業務である「監査」について学んだ。それまでの僕は、一つの会社に就職したら終身雇用と年功序列のなかで生きていくイメージを持っていた。 しかし、先生の話を聞くうちに、資格を持って様々な企業のビジネスに関わり、プロフェッショナルとして自己研鑽を重ねる生き方に惹かれていった。企業の「主治医」のようなポジションに対して、強い憧れを抱いたのだ。


ここで話を戻すと、11月の筆記試験で簿記2級に合格できたら、本格的に公認会計士を目指そうと心に決めた。 結果は合格。合格率が15%ほどと言われるなか、記憶では80%を超える正答率だったと思う。


こうして、TACの公認会計士講座の1.5年コースを選択した。 大学3年の12月試験を目標に据えたカリキュラムだ。

だが、勉強の甲斐もなく結果は不合格。翌年5月の試験も届かなかった。

大学4年の5月末、部活の同期には内定をもらって旅行や飲みに明け暮れる人もいた。 「自分は一体何をしているんだろう。一度、心を落ち着かせよう」 そう思い、実家へ帰省することにした。

大学4年の6月、実家に戻り、両親に頭を下げた。大学の学費や下宿代とは別に、予備校の費用として70万円を超える大金を出してもらっていたのにもかかわらず、結果を出せなかった不甲斐なさを謝罪した。 両親は「自分が選んだ道なら何でも応援するから、チャレンジすることが大切だよ」と言ってくれた。


その後、元気なうちに会っておこうと祖母の家へ向かう途中、車を運転する母の目に涙が浮かんでいるのが見えた。 周りの大学生が進路を決めていくなか、自分だけが決まっていないことへの涙だったのだろうか。応援すると言いつつも、言葉にできない不安の涙だったのかもしれない。

この母の涙を見て、自分のなかの何かが変わった。

ちょうど大学4年の6月、水道橋に東京CPA会計学院という予備校が新校舎を立ち上げるという情報を耳にした。 僕は両親に深く頭を下げ、CPAの学費として1年コースの40万円を工面してもらった。

そこからは飲み会やゲーム、YouTubeを一切断ち、毎朝9時から22時まで、6月から12月までひたすら机に向かった。 その結果、12月の試験で見事に合格を果たす。得点率も70%を超えていた。

次の2次試験は翌年の8月だ。 大学生活の最後くらいは楽しもうと、1月から3月まではとにかく遊び尽くした。欧州や沖縄への卒業旅行、友人たちとの飲み会、YouTubeを見てのんびり過ごす時間、心ゆくまで語り合い、泥のように眠る日々。

そして4月が訪れた。 周囲の友人たちは社会人として働き始め、SNSのタイムラインは仕事の愚痴や戸惑いの声で埋まっていった。 そんななか、僕は一人で勉強を続けていた。息抜きのつもりで開くSNSが、次第に焦りを生む凶器へと変わっていった。

5月に受けた模擬試験の結果は、一番低いE判定。 周りが初任給をもらい、会社の同期と飲み会などを楽しんでいるなか、自分は一人で結果の出ない勉強を続けている。

焦りだけが、ひたすら募っていった。
そして気がついたときには、実家の近くにある精神科の病院に入院していた。 そこは閉鎖病棟と呼ばれる場所で、木のベッドに布団、トイレだけが備わった、窓に鉄格子のついた部屋だった。 食事のときに看護師の方と顔を合わせる以外は、基本的に一人きりの空間だ。

最初の夜、廊下に黄色い常夜灯が灯るなか、恐怖のあまり寝付けなかったことを覚えている。 だが、2日目からは「いっそこの環境を楽しんでやろう」と開き直り、部屋の中で一人カラオケをして過ごした。 看護師の方が高校時代の同級生だったり、幻聴のなかで従姉妹たちが励ましてくれる声が聞こえたりと、不思議な経験をした。

閉鎖病棟で2週間を過ごした後、一般病棟へ移ることになった。 そこでは、作業療法士の方による息抜きのようなレクリエーションが用意されていた。

そのイベントの一つに、大好きなカラオケがあった。 僕は、父が昔よく歌ってくれた『島人ぬ宝』を選んだ。 また、2週間ぶりに入ったお風呂では、お湯に浸かれることのありがたみが身に沁みた。

一般病棟で1週間ほど過ごしたのち、再度一時的に閉鎖病棟へ戻ることになった。 しかし、もう恐怖心はなかった。ひたすら一人カラオケをしたり、持ち込みを許された紙とペンでお絵描きをしたりして過ごした。

その後、再び一般病棟に戻った。 そこでのカラオケイベントは、老若男女の患者がみんなで歌う時間だった。坂本九さんの『上を向いて歩こう』、AKB48の『365日の紙飛行機』、ZARDの『負けないで』、松田聖子さんの『赤いスイートピー』など、自然と元気が湧いてくる曲を中心に、みんなで声を合わせた。

入院から1ヶ月半が経った頃、ようやく両親との面会が許可された。 入院中は当然スマートフォンに触れられなかったため、久しぶりに確認した友人たちからの多くのメッセージに涙がこぼれた。そして、当時お付き合いしていた大切な人から別れを告げられていることを知り、また泣いた。

(思い返せば、入院中は両親に『ドカベン』の最終回を探してコンビニを回ってもらったり、吉野家のポケモンコラボのために店舗を巡らせたりと、たくさんの苦労をかけてしまっていた)

入院から2ヶ月が経ち、初めての外出許可が下りた。 母が近くの公園へと連れ出してくれ、二人でコンビニのアイスを食べた。外の空気のおいしさに、また涙が止まらなかった。

そして3ヶ月が経過し、自宅への一時帰宅などを経て、無事に退院の日を迎えた。

当然ながら、その年の8月の試験は不合格だった。 会計士試験は、1次試験に合格してから3年間の猶予がある。その間に2次試験を突破しなければ、また1次試験からやり直しになってしまう。

体調を整えた僕は、地元を離れて再び東京へと上京した。

その後、2次試験には3回挑戦したものの、合格には届かなかった。猶予期間が過ぎ、また1次試験からのスタートに戻ってしまった。

年齢的なこともあり、そろそろ自立して働いてほしいという話が家族からも上がった。 「いつまでも親の脛をかじっていられる」と思い込んでいた自分の甘さを、深く反省した。

そうして僕は、働きながら税理士を目指す道へと進むことになる。

試験を前にして、緊張で眠れない夜を迎えた自分への戒めも込めて、今この文章を書いている。

今年こそ、必ず合格する。
2026/07/19 am5:00

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