第五話:『兆し』
受容を胸に抱いてから数日が過ぎた。
特別なことが起きたわけではない。
仕事に向かい、いつもの帰り道を歩き、
同じように夜を迎えるだけの日々。
それなのに――
世界が少しだけ違って見えた。
朝、カーテンを開けた瞬間、
光の差し方が妙にあたたかく感じられた。
肌に触れる空気の温度が、
まるで誰かの手のようにやさしかった。
その日も、いつもと同じカフェに立ち寄った。
席に着き、コーヒーを頼む。
いつもの日常。
でも、今日は違うことがあった。
店員が持ってきたカップを置くとき、
ふっと甘い香りがした。
あの日の再会で漂った、あの“香り”に似ていた。
心臓が一瞬だけ跳ねた。
思わず周りを見渡したが、
誰かがいるわけではない。
ただ、ただ香りが胸の奥に触れてきた。
――また来てる。
そう思った。
根拠はない。
でも、確信だけがあった。
コーヒーを飲んだ時、
苦みのあとにほのかな甘さがいつもより強く感じられた。
思わず微笑んだ。
店を出ると、
信号待ちのわずかな時間、
背中にやわらかい風が触れた。
その風は、あの日の光のぬくもりと同じだった。
私は深く息を吸った。
胸がゆっくりと広がっていく。
まるで、世界が「気づいてほしい」と語りかけてくるようだった。
夜。
ベッドに横たわり、目を閉じた。
すると――
耳元で、微かに衣擦れの音がした。
誰かが歩いて近づくような、
静かな音。
耳を澄ませると、音はすっと消えた。
怖さはなかった。
むしろ、懐かしさの方が強かった。
意識が薄れ始めるその時、
胸の奥で小さな光が揺れた。
眠りに落ちる直前、
確かに“声”がした。
――ちゃんと届いているよ。
その声は、
思い出の中の誰でもなく、
昨日会った誰でもなく、
あの夜の再会の続きを告げているようだった。
私はそっと目を開けた。
部屋は暗い。
何の変哲もない、いつもの夜。
けれど胸の中には
小さな灯りがともったままだった。
それは、消えない光だった。
あの日の再会の記憶の残り火でもあり、
これから訪れる何かの“予告”でもあった。
私は静かに息を吐いた。
世界は確かに変わり始めている。
それは偶然でも幻想でもなく、
確かな“兆し”だった。
第六話へつづく
――久遠遼
