虹にならないもの(1)
夜は部屋の隅から少しずつ濃くなっていた。
窓の外には細い路地があり、雨上がりのアスファルトが街灯をぼんやりと映していた。
遠くで車の走る音がした。
どこかの家の換気扇が回り、電線の上で見えない鳥が一度だけ羽を動かした。
男は机に向かっていた。
いくつかの三流ゴシップ誌に不定期で掲載される荒唐無稽でひどく退屈な短編小説。
誰のために書かれたかわからない、ほとんど読まれもしないガラクタ。
それを寄稿するのが男の生活の糧だった。
机の上には、原稿用紙が散らばっていた。
書きかけの紙、丸められた紙、何か大事なことを書こうとして途中で照れくさくなった紙。
カップ麺の空き容器がひとつ、冷えた茶の入った湯呑みがひとつ、噛み跡のついた鉛筆が三本。
女は部屋の隅の椅子に座っていた。
彼女は本を読んでいるわけでも、男の方を見ているわけでもなかった。
ただ、自分の手を見ていた。
その視線は虚ろに見えたが、男には、むしろ何かを深く見すぎているようにも思えた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
沈黙は気まずいものではなかった。
けれど穏やかでもなかった。
それは、底の見えない井戸の上に薄い板を渡し、その上で二人が向かい合って座っているような沈黙だった。
男は、目の前の原稿を一枚持ち上げた。
そこには、エレクワイタムについて書かれていた。
エレクワイタム。
空前絶後の世界最高サラブレッド。
あるいは、世界最高のサラブレッドであったはずのもの。
あるいは、最初からサラブレッドなどではなかったもの。
彼は史上初のザ・ゼウス三連覇を果たし、英国クラシック三冠を制し、愛ダービーも仏ダービーも大レコード勝ち、凱旋門賞を33馬身差で持ったまま勝ち、ブリーダーズカップクラシックを48馬身差で勝ち、ジャパンカップではレースレコードを13,8秒縮めた。
その後、世界一の大富豪の気まぐれ道楽で、まるで異種格闘技のようなマッチレースに巻き込まれ、テスラモデル3に1,000馬身差で大敗し、復帰戦でもハイゼットカーゴに680馬身差で敗け失意の内に引退した。
引退後、彼はサラブレッドではなかったことが判明した。
さらに調べると、馬ですらなかった。
それは、概念の塊だった。
いや、違う。
エレクワイタムは、概念の塊ですらなかった。
それは、子どもの頃に忘れた夢の残滓だった。
男はそこまで読み返して、少しだけ満足した。
それから、少しだけ不安になった。
こういう時の満足は、たいてい信用できない。
彼は原稿を机に置き、女の方を見た。
「どう?」
声は思ったより軽く出た。
軽く出たことが、かえって彼を不安にさせた。
「なかなか傑作じゃないか?俺の夢想を詰め込んだナンセンスストーリーだ。これで駄目なら俺は……」
女はすぐには答えなかった。
彼女は相変わらず、自分の手を見ていた。
その手の中に、男には見えない何かがあるようだった。
あるいは、かつてあった何かの跡だけが残っているようだった。
やがて女は、どこを見ているのかわからない声で言った。
「これが傑作なら、世界の悲しみは虹に変わるでしょうね」
~虹にならないもの(2)へ続く~
