虹にならないもの(12)
書き終えると、部屋の外で車の音がした。
軽いエンジン音。
どこにでもある、白い軽バンの音。
男は窓の方を見た。
路地の一隅に、朝の光が差していた。
そこにはもう、エレクワイタムはいなかった。
ただ、光だけがあった。
女が言った。
「続きそうね」
男は答えた。
「終わったんじゃないのか?」
「物語は終わったのよ」
「じゃあ何が続く」
女は手を見た。
それから、男を見た。
「生活」
男はしばらく黙った。
そして、ゆっくりとうなずいた。
生活。
それはハイゼットカーゴのような言葉だった。
速くもなく、美しくもなく、神話にもならない。
だが荷物を積み、朝になればエンジンをかけ、狭い道を曲がり、何かをどこかへ届ける。
男は鉛筆を置いた。
腹が減っていた。
「何か食べるかな」
女は言った。
「ネギトロ巻き?」
男は笑った。
「いや。今日はカップ麺でいい」
「泣く?」
「たぶん泣かない」
「たぶんなのね?」
「人間は大抵、保留だからな」
女は呆れたように笑った。
その笑いは、部屋の中で小さく響いた。
世界の悲しみは、まだ悲しみのままだった。
しかし、湯を沸かすくらいの時間なら、男にもあった。
彼は立ち上がった。
台所へ向かう途中で、机の上の原稿を振り返った。
白紙はまだ残っている。
むしろ、ほとんど白紙だった。
だが、それでよかった。
全部を埋める必要はなかった。
少なくとも、今日すぐには。
路地の一隅に光がある。
土の中に種がある。
荷室には、まだ積めるものがある。
そして、どこか遠くで、
姫りんごを齧る音がしたような気がした。
しゃり。
男は振り返らなかった。
湯が沸きはじめていた。
~完~
