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「 的 」

~顔も知らないSさんに捧ぐ~


私は「的」という言葉を信じない。
「的」は何やら胡散臭いからだ。
頻繁に使おうとしている自身を抑え込むのに精いっぱいだ。
 
―詩的。
―文学的。
―哲学的。
―現代的。
―本質的。
 
「的」はどこにでもついて廻る。
 
まるで母親の後をついて歩くアヒルの子だ。
あるいは好きなアイドルを追いかける推し活だ。
もしくは女の尻を追いかける不細工なストーカーだ。
かわいらしい < うらやましい < いやらしい。
 
閑話休題
 
「的」は、これら、いやらしい以上に便利な言葉である。
 
便利なんて言葉は生易しい。
使い勝手が良すぎるにもほどがある。
 
なぜなら、「的」を付けた瞬間に説明した気になれるからだ。
いや、説明した気になるというより、
「説明できなかったこと」を「説明した」ことにできる。
 
「これは詩だ」と言い切れない。
だから「詩的」と言う。
 
「これは哲学だ」と言い切れない。
だから「哲学的」と言う。
 
「これは本質だ」と言い切れない。
だから「本質的」と言う。
 
私たちはしばしば、わからないものに「的」を貼る。
そして安心する。
 
「的」は、「誤訳」の跡だ。
 
―理解したい。
―分類したい。
―整理したい。
―説明したい。
 
そのような心の痕跡だ。
世界そのものではない。
世界に貼られた付箋である。
だから人は今日も付箋を貼る。
 
詩的。
文学的。
本質的。
 
そしてそのたびに私は想う。
本当にそうだろうか? と。                                              
 
たとえば普通の人が、
「これはメロンです」 と言われたら、
「ああ、メロンか」 で終わる。
 
しかし、そこでは終わらない。
「なぜメロンなのか」
「メロン的とは何か」
「メロンである条件とは何か」
「もし条件を満たしたらキリンもメロンなのか」
と勝手に関連付けが始める。
 
だから『キリンとメロン』になる。
だから『あとづけ』になる。
だから『誤訳』になる。
 
否、どれもこれも違う、違和感。
どこか微細にずれている。 
                           
一体全体、なんのことかと思うでしょう?

わかる人にはわかるはずです。
とくにあなたならわかるはず。
わかったような気になるはず。
 
『私の気持ちなんてお前なんかにわかってたまるか』
 
なんせ、世界は「誤訳」に溢れていますので。
 
私的にはそう感じます。



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