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イランは本当に核兵器を作っているのか、誰にも証明できないという話

ないことは、証明できない。これはイランの核問題に限った話ではなく、論理の構造そのものの話だ。「作る気はない」を完全に証明する手段は存在しないし、「作る気だ」を確定させる証拠も、何かが起きるまでは出てこない。にもかかわらず、2026年2月末、米国とイスラエルはその溝を待たずにテヘランを空爆した。証明されないものの上で、すでに判断は下されている。

噛み合わなさは、おそらくここから始まっている。一方は「やったかどうか」を問い、もう一方は「やる気があるかどうか」を問う。前者は行為の話で、後者は意図の話だ。行為は痕跡を残すから、いつか検証できるかもしれない。けれど意図は、本人の内側にしかない。だから「作る気はない」を完全に証明する手段は、原理的に存在しない。この溝は、誰がどれだけ誠実に向き合っても、論理の構造として埋まらないようにできている。

2026年3月、IAEAのグロッシ事務局長は、攻撃下にあったイランについて、核兵器を製造している証拠はないと述べた。ところが同じ口から、高濃縮ウランの大量の貯蔵と査察の拒否に深刻な懸念を表明し、イランが協力しない限り、その活動が平和目的であることを保証する立場にはない、という言葉も出ている。証拠はない。だが保証もできない。矛盾しているように聞こえて、実はどちらも正確なのだと思う。証拠がないのは行為についての話で、保証できないのは意図についての話だからだ。語っている土俵が違うだけで、両方とも嘘をついていない。

破壊された主要な核施設では、核兵器級に近い高濃縮ウランの行方が分からなくなっている。IAEAはアクセスを認められず、偵察衛星の画像に頼るほかない状況だという。見えないから疑う、という反応は、ここでは比喩ではなく物理的に起きている。中が見えない以上、外から想像するしかなく、想像はたいてい最悪のほうへ傾く。隠しているのか、それとも隠すように見えているだけなのか。その区別すら、外側からは付けようがない。

ここには、私たちが日常でくり返している決めつけと、よく似た構造がある。「あの人は本当はこう思っている」。相手の沈黙や、見えない部分を、自分の推測で埋めていく。埋めた推測を、いつのまにか事実のように扱う。証明できない潔白を、相手に求めてしまう。求められたほうは、ないことを証明する不可能な宿題を背負わされる。国家の間で起きていることと、ごく個人的な不信のかたちが、論理の骨格のところでつながっているように見える。

そして、もうひとつ気になることがある。査察や合意というのは、本来この埋まらない溝を、少しずつ埋めるための道具だったはずだ。見せることで信用を作り、信用が次の透明性を呼ぶ。けれど信用が失われた瞬間、その道具は別の顔を見せる。2026年6月、IAEAの理事会はイランに高濃縮ウランの情報提供と査察の受け入れを求める決議を採択した。これに対してイラン側は、空爆の前日に出されたNPT義務違反の非難決議が、攻撃の口実に使われたのだと主張している。疑われる側から見れば、透明性を求める制度そのものが、攻撃を正当化する装置に見えてしまう。見せれば見せるほど不利になる。隠せばさらに疑われる。どちらに進んでも追い詰められる構造の中に、相手は立たされている。

どちらが正しいのかを、ここで決めるつもりはない。グロッシ氏の懸念にも筋が通っているし、イラン側の不信にも筋が通っている。両者の主張は、どちらも論理として破綻していないまま、永遠に噛み合わない。私が見ていたいのは、その噛み合わなさそのものだ。正しさ同士がぶつかって火花を散らすのではなく、土俵が違うために、すれ違ったまま並走し続ける。

意図は、最後まで証明されない。されないまま、人は判断を下し、行動を起こし、ときに取り返しのつかないことをする。証明を待っていたら何も決められないから、私たちはいつも、証明されていないものの上に立って決断している。それがどれほど危ういことか、こうして遠い国の問題として眺めているあいだは、よく見える。けれど自分が誰かの意図を測るとき、同じ危うさの上に立っていることには、たぶん気づいていないのかもしれない。

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