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歌えないオッサンのバラッド外伝――真人編

あんたはヒトの優しさに触れたときにどんなことをする?

素直に感謝する?
優しさに報いる方法を考える?

そう、俺たちは誰もが何かしらの優しさに対して優しさで応えようとする。
してしまうと言ってもいい。

今回は歌えないオッサンのバラッド主人公健一の息子である真人の外伝だ。
少し浸っていってくれよな。


葵の扉を押した瞬間、外の湿った空気が背中にまとわりついた。

六月の夜は、雨が降っていなくてもどこか濡れている。
アスファルトの匂いと、遠くの車の音。
俺はその全部を吸い込みながら、カウンターの端に座る父さんの背中を見つけた。
いつもと同じ姿勢。
いつもと同じ角度。
けれど、今日は少しだけ違って見えた。

「よぉ、真人。珍しいじゃねぇか、こんな時間に」

タカが声を上げる。
トムは軽く手を挙げただけで、ママは静かに微笑んだ。
俺は曖昧に返事をして、父さんの隣に腰を下ろした。
父さんはグラスを持ったまま、横目で俺を見た。

「……どうした」

その声はいつも通り低くて、乾いていて、余計なものが何もない。
俺は一度だけ息を吸い、吐いた。

「……結婚することにした」

言った瞬間、葵の空気が少しだけ揺れた。

タカが「おおっ」と声を上げ、トムが「いいじゃない」と呟く。
ママは「おめでとう」と柔らかく言った。

父さんだけが、何も言わなかった。

ただ、ほんの一瞬だけ、目線が揺れた。
俺はそれを見逃さなかった。

父さんが“何かを飲み込む”ときの癖だ。
母さんの話をするときと同じ。

父さんはゆっくりとグラスを置き、ポケットからスマホを取り出した。無言のまま画面を操作し始める。

「……父さん?」

返事はない。
ただ、指先がわずかに震えていた。

その震えも、俺は知っている。
父さんが“言葉にできない気持ち”を抱えたときの震えだ。

数秒後、俺のスマホが震えた。
画面を見ると、銀行アプリの通知が表示されていた。

――振込:200万円。

「……は?」

声が裏返った。
タカが「マジかよ」と笑い、トムは「健一さん、太っ腹だね」と呟く。
ママは驚いた顔をしながらも、何も言わなかった。

父さんはスマホをしまい、グラスを持ち直した。

「……入れた」

それだけ言って、酒をひと口飲んだ。

「ちょ、ちょっと待てよ父さん。なんで――」
「使い方はお前たちで考えろ」

俺の言葉を遮るように、父さんは静かに言った。

「いいか。……お前たちでだぞ」

その“お前たちで”の意味が、胸に重く落ちた。
亜美がいないこの場所で、父さんは俺にだけ言った。

――お前が決めろ。
――お前が背負え。
――お前が守れ。

そんな意味が、言葉の奥に沈んでいた。

父さんはそれ以上何も言わなかった。
ただ、グラスを持つ手がまた少し震えた。

俺はその震えを見て、胸が締めつけられた。

「……父さん」

言いかけて、やめた。
父さんは目を伏せた。その伏せ方が、やっぱり母さんの話をするときと同じだった。

タカが「真人、いい父さんじゃねぇか」と笑い、トムが「大事にしなよ」と言った。ママは「健一さん、優しいね」と微笑んだ。

でも俺には分かっていた。
父さんは優しいんじゃない。
優しさの使い方が分からないだけだ。

だから、金でしか示せない。
そしてその金が、俺の胸に重く沈む。

葵を出たあと、夜風が少し冷たかった。  スマホの通知を見つめながら、俺は歩いた。

――使い方はお前たちで考えろ。

その言葉が、何度も頭の中で反響した。

父さんの背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
その小ささを、俺は忘れられない。


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