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薬害エイズ和解30年 繰り返された「知った後の時間」

7月4日、朝日新聞に一本の記事が載った。薬害エイズ訴訟で「原告番号57番」と呼ばれた母親が、和解から30年を経て、初めて実名で手記を書いたという内容だった。奈良県の杉山千波さん、73歳。


番号で呼ばれた原告

杉山さんの長男・信一さんは1歳10カ月で血友病と診断され、非加熱血液製剤の投与を受けた。HIVに感染し、AIDSを発症し、1992年5月に13歳で亡くなっている。本が好きな子で、読んだ本の題名を読書ノートに書き留めていた。

主治医が感染を把握したのは、家族に告げる2年前だった。告げなかった理由として、それが死の宣告になるからだと説明されたという。

この判断を後から裁くのは容易だが、置く場所は別にある。1980年代後半の日本では、がんの告知も本人には伝えないのが主流だった。予後不良の病名を患者と家族のどちらに、いつ伝えるかという規範は、90年代を通じて大きく動いている。インフォームド・コンセントが医療法に努力義務として書き込まれたのは1997年。信一さんが亡くなった5年後になる。

告知しないことが標準だった時代の判断と、感染の事実を握ったまま2年が過ぎたことは、同じ話ではない。前者は当時の規範に沿っている。後者は、感染症としての対応が動かなかったという別の層を含む。

血友病患者と遺族が国と製薬会社を訴えたのは1989年。差別と偏見による人権侵害の恐れから、日本で初めて匿名での訴訟が認められた。杉山さん夫妻は信一さんの死後、「原告番号57番」として加わっている。

被害を受けた側が、名乗るリスクを引き受けられなかった。訴える権利の行使そのものに、事件の被害が二重にかかっていたことになる。

大阪の原告遺族がこの春に出した手記集で、寄稿した20人のうち実名を出したのは8人。6月26日には厚生労働省で原告団との公開協議が開かれ、杉山さんは30年かけてようやく社会に向けて少し開くことができた、と述べた。

知った後に流れた時間

薬害エイズの核心を一行にすると、危険性が分かってから製品が市場から引かれるまでに、どれだけ時間が流れたかという話になる。

米国で加熱製剤の使用が始まったのが1983年。国内での承認は1985年7月。その間、非加熱製剤は使われ続けた。

訴訟が動いたのは司法過程だけの力ではない。1995年3月、川田龍平さんが19歳で実名を公表する。厚生省前には学生が座り込み、テレビが連日それを流した。世論の圧が最も高まった1996年2月、存在しないとされてきた調査資料が省内から見つかった形で公表される。菅直人厚相が謝罪し、翌3月に両地裁で和解が成立した。一時金は1人4500万円。これまでに約1400人と和解している。

文書がどこにあり、誰が出すと決めるのか。資料の所在そのものが争点だった事件として、薬害エイズは今も参照できる。

企業と厚生省の元課長は有罪が確定したが、臨床・学術の側の刑事責任は一審無罪、控訴中の被告死亡で終着していない。

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