加害者擁護論はなぜ世論から見放されたか——栃木事件「同じような苦しみを味わってほしい」
「穏やかに過ごしていた私ども家族は今、どん底にいます」
「犯人たちは、身勝手な理由で、何の落ち度のない妻や愛犬を惨殺しました」
「私たちは、犯人たちのことを許すことは絶対にありません」
「同じような苦しみを味わってほしいと思います」
2026年5月22日、栃木県警を通じて公表された遺族コメントです。被害者は5月14日午前9時半ごろ、上三川町上神主の自宅で殺害された富山英子さん(69)。妻と愛犬を殺された家族の言葉。これを起点に書きます。
事件発生から1週間。テレビのコメンテーターや一部の有名人は「16歳実行犯のこの先の人生も心配」「16歳だと死刑にはならない」と発言し、その都度炎上していました。元体操選手の田中理恵氏のコメントへの反発、玉川徹氏の発言への違和感、TBS「ひるおび」への批判。
そこに遺族のコメントが出た。「同じような苦しみを味わってほしい」という言葉は、リベラル系言説が長年「報復感情」「私刑感情」と切り捨ててきた領域から、正面から発せられた声です。この声を「感情論」と処理できるかどうかが、いま問われている。
「許すことは絶対にありません」という言葉の重さ
遺族コメントの中で、最も重い一行はここでしょう。
「私たちは、犯人たちのことを許すことは絶対にありません」
戦後の日本社会、特にリベラル系メディア・知識人・教育界では「許す心が大切」「憎しみを乗り越える」という言説が繰り返し再生産されてきた。被害者遺族の厳罰要求は「報復感情」、寛容の呼びかけは「成熟」とラベリングされてきた構造があります。
しかし富山さんの遺族は、絶対に許さないと公的に宣言した。同じような苦しみを味わってほしいと書いた。この言葉を「未熟」と裁ける人間は、もはやいない。直接的な被害を受けた家族の、最も具体的な声だからです。
擁護論側のリベラルメディア・コメンテーターは、この遺族コメントへの直接の反応をほぼ示していません。沈黙が示すのは、自分たちの言説と遺族の声が両立しないことを、彼ら自身が薄々理解しているからでしょう。
擁護論の中に被害者の席はない
栃木事件後のSNS擁護論を眺めると、共通項が浮かびます。
「犯罪においては、加害者が被害者である事もある」
「実行役4人の子達は家庭環境も悪かっただろうし、色々な事情があって闇バイトに手を出してしまった」
「未成年なのであれば、もう一度チャンスを与えて社会復帰させるべき」
どの文にも富山英子さんの名前は出てこない。20カ所以上刺された事実も、愛犬まで殺された事実も、長男・次男も負傷した事実も、文中に存在しない。被害者は事件のきっかけとして処理され、感情の対象になっていない。
田中理恵氏の「この先の人生も心配」も同じ構造です。誰の人生を心配するか、という選択の問題。富山さんと遺族の今後ではなく、加害少年4人の今後を選んだ。この選択自体が認知の地図を露呈している。
X上のあるユーザーの指摘が的確です。
「加害者の今後の人生を心配する必要がどこにあるの?一生出すな」
選択の不当性を、世論は鋭く感じ取っている。
そして遺族コメントの後、この感覚はさらに強化されました。「どん底にいる」家族が現に存在し、「絶対に許さない」と言っている。それでも加害者の将来を心配する言説は、誰の方を向いているのか、という問いから逃げられなくなっている。
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