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【白衣の記憶】返せなかった指輪

義父から引き継いだ、大切な患者さんがいる。

血圧の治療で、
月に2回、必ず診察にいらしていた。

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彼女のご主人も、義父の患者だった。
最期は、ご自宅で看取られたと聞いている。

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90歳を超えているとは思えないほど、
透き通るような肌。

整った目鼻立ち。

そして、こちらの話を真摯に聞くその瞳は、
黒の奥に、うっすらと深い緑をたたえていた。

まるで深海のように静かで、
吸い込まれそうになる。

同性の私ですら、思わずドキッとするほどだった。

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爪の先まで丁寧に整えられ、
いつも淡いピンクのネイル。

若い頃は縫製工場で働いていたそうで、
当時の服を自らリメイクして着ていた。

それがかえって新鮮で、
とてもおしゃれだった。

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足を悪くされていて、
身長は140センチにも満たない。

カートに体を預けながら、
ゆっくりと、しかし必ずご自身の足で来院されていた。

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白髪混じりの柔らかな髪は、
いつもきちんと結い上げられている。

「毎朝、美容室に行かれているんですか?」

そう尋ねると、彼女は笑った。

「そんなはずないですよ。年金暮らしですから。
昔からの習慣です。慣れですね。」

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髪を結う。

それは、ただの身支度ではない。

髪をとかし、まとめ、
指先でゴムを伸ばしながら整える。

浮いた髪を見つけて、ピンで留める。

目を使い、腕を上げ、
左右の手でバランスよく整える。

その一つ一つが、
日々を丁寧に生きてきた証のように感じられた。

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「食欲はいかがですか」

「毎朝、野菜を4種類以上とお豆腐のお味噌汁を。
お米も美味しくいただいています。
自家製の糠漬けも欠かしていません。

夫の仏壇にも、毎朝お供えしているんですよ。
もう20年以上経ちますけどね。」

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なんでも、ご自身の手で整える方だった。

身支度も、料理も、掃除も。

ひと通り終えると、
今度はご主人との思い出が詰まった食器を、
静かに磨いて過ごされていたという。

それは、時間を磨くような、
そんな穏やかな習慣だったのかもしれない。

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人徳のある方で、
ご自宅にはいつも誰かが訪ねて来ていた。

そして遠くで地震などの災害があれば、
被災者のことを自分のことのように心配する方だった。

「年金暮らしだからこそ、
これ以上病気をするわけにはいかないんです。
皆さんのご迷惑になってしまいますから。」

そう言って、
ご自身の健康にも人一倍気を遣っていた。

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ある日の診察で、
いつものように血圧を測っていると、

彼女はゆっくりとバッグに手を入れ、
何かを確かめるように、指先でそっと探った。

やがて取り出されたのは、
ひとつの指輪だった。

小さなダイヤモンドが、
静かに光を集めている。

それはただの装飾品というよりも、
長い時間を閉じ込めた、小さな記憶のように見えた。

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「私より、先生に似合うと思って」

そう言って差し出されたその手は、
いつもと変わらず穏やかで、けれどどこか、
決意のようなものを含んでいるようにも見えた。

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「若い頃、夫が買ってくれたものなんです」

その一言の奥に、
どれほどの年月と、
どれほどの時間が積み重なっていたのだろう。

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「先生のお義父様にも、本当にお世話になりました。
夫はね、この診療所の方角に足を向けて寝られないと、
そう言っていたくらいなんですよ」

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その指輪は、
ただの贈り物ではなかった。

彼女のこれまでの人生と、
誰かを大切に想って生きてきた時間そのものが、
静かに託されたように感じられた。

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差し出されたその指輪を、
私はその場で返すことができなかった。

断れば、この方を傷つけてしまう。
それが分かってしまったから。

――いつか、きちんとお返ししよう。

そう思って、
私はその想いごと、預かった。

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そんな彼女が、ある日を境に、
少しずつ辻褄の合わない話をするようになった。

✳︎

10年近く見慣れているはずのベテラン看護師を、
彼女は怪訝そうな表情で見上げた。

そして——

採血針が血管に入った瞬間、

「痛い!」

と声を上げた。

そんなことは、これまで一度もなかった。

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そして数週間後、
ソーシャルワーカーから連絡が入った。

地方の施設に入居が決まったので、
紹介状を書いてほしい、と。

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そのとき、初めて知った。

――いや、知っていたはずだった。

彼女にお子さんがいらっしゃらないことを。

それでも私は、
その意味を、十分に分かっていなかった。

唯一の身内だった甥御さんが、
自死されたということを。

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診察に付き添ってくれていた、あの優しい甥御さんが。

まさか、そんなことが起きていたなんて。

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――それで、か。

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彼女は、自分を守ったのだと思った。

あまりにも大きな悲しみから、
自分自身を守るために。

人は、この世の辛い記憶を手放し、
積み重ねてきた時間に支えられながら、
静かに人生を閉じるものなのかもしれない。

✳︎

あの指輪と一緒に。

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今、どうされているだろう。

元気でいらっしゃるだろうか。

答えのない問いを、
今もときどき、心の中で繰り返している。

✳︎

私のアクセサリーケースの中で、
あの指輪は、今も静かに輝いている。

まるで——
彼女のあの瞳のように。

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