【白衣の記憶】返せなかった指輪
義父から引き継いだ、大切な患者さんがいる。
血圧の治療で、
月に2回、必ず診察にいらしていた。
✳︎
彼女のご主人も、義父の患者だった。
最期は、ご自宅で看取られたと聞いている。
✳︎
90歳を超えているとは思えないほど、
透き通るような肌。
整った目鼻立ち。
そして、こちらの話を真摯に聞くその瞳は、
黒の奥に、うっすらと深い緑をたたえていた。
まるで深海のように静かで、
吸い込まれそうになる。
同性の私ですら、思わずドキッとするほどだった。
✳︎
爪の先まで丁寧に整えられ、
いつも淡いピンクのネイル。
若い頃は縫製工場で働いていたそうで、
当時の服を自らリメイクして着ていた。
それがかえって新鮮で、
とてもおしゃれだった。
✳︎
足を悪くされていて、
身長は140センチにも満たない。
カートに体を預けながら、
ゆっくりと、しかし必ずご自身の足で来院されていた。
✳︎
白髪混じりの柔らかな髪は、
いつもきちんと結い上げられている。
「毎朝、美容室に行かれているんですか?」
そう尋ねると、彼女は笑った。
「そんなはずないですよ。年金暮らしですから。
昔からの習慣です。慣れですね。」
✳︎
髪を結う。
それは、ただの身支度ではない。
髪をとかし、まとめ、
指先でゴムを伸ばしながら整える。
浮いた髪を見つけて、ピンで留める。
目を使い、腕を上げ、
左右の手でバランスよく整える。
その一つ一つが、
日々を丁寧に生きてきた証のように感じられた。
✳︎
「食欲はいかがですか」
「毎朝、野菜を4種類以上とお豆腐のお味噌汁を。
お米も美味しくいただいています。
自家製の糠漬けも欠かしていません。
夫の仏壇にも、毎朝お供えしているんですよ。
もう20年以上経ちますけどね。」
✳︎
なんでも、ご自身の手で整える方だった。
身支度も、料理も、掃除も。
ひと通り終えると、
今度はご主人との思い出が詰まった食器を、
静かに磨いて過ごされていたという。
それは、時間を磨くような、
そんな穏やかな習慣だったのかもしれない。
✳︎
人徳のある方で、
ご自宅にはいつも誰かが訪ねて来ていた。
そして遠くで地震などの災害があれば、
被災者のことを自分のことのように心配する方だった。
「年金暮らしだからこそ、
これ以上病気をするわけにはいかないんです。
皆さんのご迷惑になってしまいますから。」
そう言って、
ご自身の健康にも人一倍気を遣っていた。
✳︎
ある日の診察で、
いつものように血圧を測っていると、
彼女はゆっくりとバッグに手を入れ、
何かを確かめるように、指先でそっと探った。
やがて取り出されたのは、
ひとつの指輪だった。
小さなダイヤモンドが、
静かに光を集めている。
それはただの装飾品というよりも、
長い時間を閉じ込めた、小さな記憶のように見えた。
✳︎
「私より、先生に似合うと思って」
そう言って差し出されたその手は、
いつもと変わらず穏やかで、けれどどこか、
決意のようなものを含んでいるようにも見えた。
✳︎
「若い頃、夫が買ってくれたものなんです」
その一言の奥に、
どれほどの年月と、
どれほどの時間が積み重なっていたのだろう。
✳︎
「先生のお義父様にも、本当にお世話になりました。
夫はね、この診療所の方角に足を向けて寝られないと、
そう言っていたくらいなんですよ」
✳︎
その指輪は、
ただの贈り物ではなかった。
彼女のこれまでの人生と、
誰かを大切に想って生きてきた時間そのものが、
静かに託されたように感じられた。
✳︎
差し出されたその指輪を、
私はその場で返すことができなかった。
断れば、この方を傷つけてしまう。
それが分かってしまったから。
――いつか、きちんとお返ししよう。
そう思って、
私はその想いごと、預かった。
✳︎
そんな彼女が、ある日を境に、
少しずつ辻褄の合わない話をするようになった。
✳︎
10年近く見慣れているはずのベテラン看護師を、
彼女は怪訝そうな表情で見上げた。
そして——
採血針が血管に入った瞬間、
「痛い!」
と声を上げた。
そんなことは、これまで一度もなかった。
✳︎
そして数週間後、
ソーシャルワーカーから連絡が入った。
地方の施設に入居が決まったので、
紹介状を書いてほしい、と。
✳︎
そのとき、初めて知った。
――いや、知っていたはずだった。
彼女にお子さんがいらっしゃらないことを。
それでも私は、
その意味を、十分に分かっていなかった。
唯一の身内だった甥御さんが、
自死されたということを。
✳︎
診察に付き添ってくれていた、あの優しい甥御さんが。
まさか、そんなことが起きていたなんて。
✳︎
――それで、か。
✳︎
彼女は、自分を守ったのだと思った。
あまりにも大きな悲しみから、
自分自身を守るために。
人は、この世の辛い記憶を手放し、
積み重ねてきた時間に支えられながら、
静かに人生を閉じるものなのかもしれない。
✳︎
あの指輪と一緒に。
✳︎
今、どうされているだろう。
元気でいらっしゃるだろうか。
答えのない問いを、
今もときどき、心の中で繰り返している。
✳︎
私のアクセサリーケースの中で、
あの指輪は、今も静かに輝いている。
まるで——
彼女のあの瞳のように。
☕️
