【白衣の記憶】ほんのちょっとの距離
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公園のベンチに座って、
楽しみにしていた自作のおにぎりを頬張った瞬間、
わたしの表情が、ほんの少しだけ歪んだ。
隣に座っていた若い男性が、
制汗スプレーを全身に使い始めたのだ。
白い霧のような粒子が風に乗って流れてくる。
鼻に届く、人工的な香り。
おにぎりの海苔の香りは、
あっという間に消えてしまった。
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もちろん、ここは公園で、
スプレーを使ってはいけない決まりはない。
彼に悪気があったとも思わない。
でも、ほんの少しだけ、
周囲に意識が向いていたら——
そう思ったとき、
日常のあちこちにある
「ほんのちょっと」が浮かんできた。
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電車でスマートフォンに夢中になっていて、
目の前に立った高齢の方に気づかなかったとき。
横断歩道で、
あと一歩早くブレーキを踏めば
驚かせずに済んだかもしれない瞬間。
子どもが何か話しかけてきたとき、
「あとでね」と言って、
そのまま流してしまった夜。
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どれも、
ほんの数秒、ほんの少しの余裕で
違う結果になっていたかもしれないこと。
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診察室で向き合う患者さんの中にも、
その「ほんのちょっと」は、静かに潜んでいる。
「なんとなく食欲がないんです」
「少しだけ、だるくて」
そんな曖昧な言葉の奥に、
小さな変化が隠れていることがある。
とくにご高齢の方ほど、
症状ははっきりとした形をとらない。
だから私は、
「こまめに顔を見せてくださいね」と伝える。
病気は、突然現れるようでいて、
実はずっと前から
小さなサインを出していることが多いからだ。
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そして、この「ほんのちょっと」に気づけるかどうかは、
大人になってから急に身につくものではないように感じている。
診察室で多くの人と向き合っていると、
ふとした場面で、その人の“感じ方の癖”のようなものが見えることがある。
相手の表情の変化にすぐ気づく人。
場の空気をやわらかく整えられる人。
逆に、自分では気づかないまま、
周囲に負担をかけてしまう人。
それは能力の差というより、
もっとずっと前、
言葉になる前のやりとりの中で育ってきたもののように思う。
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そういえば、子どもたちが小さい頃、
私は「傘を少し傾けて持つこと」をよく伝えていた。
すれ違う人に雨が当たらないように、
ほんの少しだけ角度を変えること。
それだけのことだけれど、
そこには、相手の位置に気づき、
その人の状況を想像する小さな動きがある。
思いやりは、
大きな行動の中にあるものではなく、
こうした“ほんのちょっとの調整”の中に、
静かに育っていくのかもしれない。
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幼い頃、
誰かと一緒に食卓を囲み、
相手の表情を見ながら食べること。
名前を呼ばれて振り向くこと。
「どうしたの?」と声をかけられること。
名前を呼ばれて振り向くことは、
ただの反応ではなく、
「誰かがそこにいる世界」に自分がいると知る体験なのだと思う。
そうした何気ない積み重ねの中で、
人は少しずつ、
「自分以外の誰かがいる」という感覚を身につけていく。
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ほんのちょっと、周囲を見ること。
ほんのちょっと、立ち止まること。
その小さな動きの土台は、
もしかすると、
とても静かな幼い頃の時間の中で、
すでに育っているのかもしれない。
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そして—
ほんのちょっと誰かに気をかけることと、
ほんのちょっとの変化に気づくことは、
別のもののようでいて、
同じところから生まれているのかもしれない。
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あの日の公園で、
もし私が一言、
「すみません」と声をかけていたら。
それもまた、
ひとつの「ほんのちょっと」だったのかもしれない。
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もしかするとあの若い男性も、
誰にも気づいてもらえない
「ほんのちょっと」の中で、
ここまで育ってきたのかもしれない。
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おにぎりの味は、少しだけ変わってしまったけれど、
その代わりに、
自分の中に残る感覚がひとつ増えた。
世の中は、
大きな出来事ではなく、
誰かの、
そして自分の、
「ほんのちょっと」でできているのではないだろうか。
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