【白衣の記憶】やり抜く力は、命の終わり方も変えるかもしれない
先日、実家に帰ったときのことだった。
和室の一角に、数枚の写真が並べられているのを見つけた。
どれも少し色あせた、古い写真だった。
父や母の、亡くなった兄妹や親戚たち。
母は時折、線香を焚いて話しかけているのだという。
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その中に、ひときわ目を引く一枚があった。
私をよく可愛がってくれた叔父の写真だった。
今の私と同じくらいの年齢だろうか。
目を細め、眉尻を下げて、
綺麗な歯を見せて笑っている。
やさしい顔だった。
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叔父は、腎臓がんだった。
60代、定年を迎えた直後に見つかった。
右の腎臓を摘出し、一度は乗り越えたかに思えた。
けれど数年後、今度は左にも転移が見つかった。
治療を始めたものの、
だんだんと広がって、
余命は3ヶ月と告げられた。
叔母が泣きながら母に電話をしてきた、
あの声を、今でも覚えている。
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けれど、叔父は違った。
残された時間を、ただ過ごすのではなく、
「自分に何ができるのか」を考えた。
そして、同じようにがんと向き合う人たちに声をかけ、
がんの患者会を立ち上げた。
経験や治療の情報を集め、
それをまた新しい患者へとつないでいく。
その輪は少しずつ広がり、
やがて、別の場所にも同じようなグループが生まれていった。
人は、
「自分のため」だけでは、やり抜けないことがある。
誰かの役に立つと感じたとき、
初めて、限界を超えていける。
叔父にとってその患者会は、
まさに“生きる理由”だったのだと思う。
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同時に、叔父は治療の場も変えた。
総合病院での治療をやめ、
食事療法と漢方を中心とするクリニックへ通うようになった。
治療法ではなく、
その医師の“人”を信じたのだという。
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あるとき、叔父に見せてもらった食材リストを、今でも覚えている。
りんごはスターキングのみ。
きなこは丹波の黒豆。
調味料も、肉も魚も、すべて銘柄や製造所まで指定されていた。
その紙に書かれているもの以外は、口にしてはいけない。
「こんなこと、本当に守れる人がいるの?」
思わず聞いた私に、叔父は静かに言った。
「ここにいる」
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叔母もまた、その覚悟に応えるように、
毎日丁寧に食事を作り続けた。
たくさんの漢方薬。
徹底された生活。
夫婦で、やり切ったのだと思う。
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やがて。
腫瘍は、少しずつ小さくなっていった。
MRIでも確認できないほどに。
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1年が過ぎ、
5年が過ぎ、
そして、叔父は80歳まで生きた。
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亡くなる2週間ほど前から、
食事の量が減っていった、というよりは、家族から見れば
減らしている様子だったという。
1週間前には、水もほとんど口にしなくなったそうだ。
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叔母は言っていた。
「もう、やることは全部やりきったから、
あとは家で、きれいに死にたいって」
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そしてある朝、
静かに息を引き取った。
医師は言ったという。
「おそらく、まったく苦しまずに亡くなられたのでしょう」
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やり抜いた人は、
自分の最期の迎え方まで、選ぶのかもしれない。
私は、医者として多くの最期を見てきた。
けれど、
ここまで静かで、
ここまで“納得のいく終わり方”をした人を、
私は他に知らない。
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叔父が表紙になっている、
がん患者向けの雑誌がある。
今でもそれを、大切に持っている。
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あの笑顔の意味が、
少しだけ分かる気がする。
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