【白衣の記憶】「よかった」が体を支える—あるがん患者さんに教えていただいたこと—
今日、がん手術を終えた30代の患者さんが来院された。
進行がんだったと聞いていたので、
きっとどれほど不安で、どれほど大変だっただろうと思いながら、私はお話を伺った。
けれど、その方は、とても穏やかだった。
「がんは大きかったけれど、リンパ節には転移がなかったんです」
「抗がん剤を飲んでいますが、今のところ副作用もなくて」
「本当に、よかったです」
そう話す表情には、無理に明るくしている感じがなかった。
つらい現実から目をそらしているわけでもない。
自分を励ますために、必死で前向きな言葉を並べているわけでもない。
心の底から、
「よかった」
と受け止めているように見えた。
私はその姿に、心を打たれた。
その方は、ふだんの診察でも、ほとんどネガティブな言葉を口にしない。
今回のことに関しても、不安がなかったはずはない。
若くしてがんを告知され、手術を受け、今も薬を飲んでいる。
その現実が軽いはずはない。
怖かったと思う。
眠れない夜もあったかもしれない。
これから先のことを考えて、胸が苦しくなる瞬間もあったと思う。
それでも、この方の口から出てくる言葉は、不思議なほど穏やかで、明るかった。
「でも、癌を見つけてもらえてよかったです」
「手術できてよかったです」
「転移がなくてよかったです」
「薬の副作用が少なくて助かっています」
その言葉を聞きながら、私は思った。
人は、口にする言葉によって、
自分の心だけでなく、体の反応まで少しずつ変えているのかもしれない。
「だめだ」
「怖い」
「もう無理だ」
「どうして私ばかり」
そんな言葉をずっと口にしていると、
体は緊張する。
呼吸は浅くなる。
眠りも浅くなる。
肩や背中に力が入る。
食欲も落ちるかもしれない。
反対に、
「気付けてよかった」
「今は大丈夫」
「ありがたい」
「できることをやろう」
そういう言葉を日々口にしている人は、
体も少しずつ、安心の方向へ反応していくのではないか。
もちろん、
ポジティブでいれば病気が治る、
という単純な話ではない。
がんの経過は、病理、進行度、治療、体質、年齢、さまざまな要素で決まる。
前向きな人だから治る、
後ろ向きな人だから悪くなる、
そんな乱暴なことを言いたいのではない。
病気になった人に、
「もっと前向きに考えなさい」
と言うことほど、残酷なことはないとも思っている。
つらい時は、つらい。
怖い時は、怖い。
泣きたい時は、泣いていい。
不安を口にすることも、弱さではない。
むしろ、必要なことだと思う。
けれど一方で、
毎日自分がどんな言葉を使っているかは、
思っている以上に、心と体に影響しているのかもしれない。
言葉は、自分の耳にも届く。
「大丈夫」
と言えば、脳は少し安心するかもしれない。
「よかった」
と言えば、体の力が少し抜けるだろう。
「ありがたい」
と言えば、今あるものに意識を向けることができる。
その小さな積み重ねが、
睡眠を守り、食欲を守り、治療を続ける力を守り、
その人の回復を支える土台になることはあるのではないか。
今日の患者さんを見ていて、私はそんなことを感じた。
その方のポジティブさは、
「病気に勝つための根性」ではなかった。
もっと静かで、自然なものだった。
今ある良いことを見つける力。
悪い方ばかりを見つめすぎない力。
不安の中でも、ひとつひとつ安心できる材料を拾い上げる力。
それは、病気を直接治す魔法ではない。
けれど、体が回復しようとする力を邪魔しない、
自分自身にとっての最適な環境をつくっているように見えた。
診察室では、医師が患者さんを診ている。
けれど時々、
患者さんの生き方から、こちらが大切なことを教えていただくことがある。
今日、私はその方から教えていただいた。
言葉は、心をつくる。
心は、体の緊張をゆるめる。
そして体は、安心した場所で、少しずつ回復しようとする。
ポジティブな言葉は、病気を治す魔法ではない。
でも、
自分の体を安心させる、
いちばん身近な処方箋なのかもしれない。
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