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【白衣の記憶】「大丈夫?」が言えなかった夜



「大丈夫?」

その一言が、どうして言えなかったのだろう。



子供が小さかった頃に出会った、あるお母さんが亡くなった。
病気だったと、後から聞いた。



彼女は、いつも家族のために一生懸命な女性だった。

珍しく幼稚園を遅刻した日、
理由を聞くと、少し照れたように笑いながら、こう言っていた。

「夜中まで家事してたの。寝坊しちゃった」



朝は家族の弁当作りから始まる。
日中は、子供たちの送り迎えに複数の習い事。
家に帰ってからも、やることは尽きない。
優秀な彼女は、子供たちに勉強も教えていた。

そして、夜遅くまで起きていることも多いと、
以前、何気なく話していたことがある。



「自分の時間なんてないよー」

そう言いながら、少しだけ肩をすくめて、笑った。



「家族がいれば、当然だよね」



その言葉を、私は深く考えずに聞き流していた。



「ちょっと過保護かなって、自分でも思うんだけどね。
でも、心配性だから、色々やっちゃうの」



どこか照れたように。
でも、どこか誇らしげに。



幼稚園の行事では、
いつも誰よりも早く来て、前の席を取っていた。

少しでも近くで、子どもの姿を見ていたいから。



役員も、積極的に引き受けていた。

幼稚園に来る機会が増えれば、
それだけ子どもの様子を知ることができるから、と。

何かを頼まれれば、断らない人だった。

誰かのために動くことが、
当たり前のようになっている人だった。



本当に、
家族思いの、いいお母さんだった。



近くに住んでいたこともあって、
時々、道でばったり会うこともあった。



顔を合わせれば、自然と立ち止まって、少し話をする。

そんな距離感のまま、時間が流れていた。



あの夜。



地方の学会から帰ってきた日だった。

23時。

そのまま眠ろうと思ったけれど、
夕食を早めに済ませていたせいか、少しだけ空腹だった。



何か軽く食べるものを、と思って入ったコンビニ。



コピー機の前に、彼女が立っていた。



「どうしたの?」



振り向いた彼女は、
少し驚いたように笑って、こう言った。



「ちょっと、明日の準備をね」



手には、かなりの枚数のプリント。



コピー機の白い光に照らされた横顔が、
ほんの少しだけ、疲れて見えた。



でも私は、
それを「夜が遅いからだろう」と思った。



それ以上、何も聞かなかった。



「大変だね」

そう言って、
私はコンビニを出た。



あれが、最後だった。



それから半年ほど経った頃。



知り合いから、彼女のことを聞いた。



「無事に合格したんだって」



よかったね、と言いかけた私に、
その人は少しだけ声を落として続けた。



「でもね……お母さん、合格してすぐ亡くなったの」



言葉の意味が、すぐには理解できなかった。



その場の空気が、急に遠くなった気がした。



数日前、偶然見かけた息子さん。



いつもと違って、
うつむいたまま歩いていた。



声をかけようか迷って、
結局、かけなかった。
何かが違ってみえたのに。



あのときの違和感の意味が、
あとから、ゆっくりと形を持って迫ってきた。



涙が、あふれてきた。



どうして、あのとき。



「体調は大丈夫?」

と、聞けなかったのだろう。



どうして、

「自分も大切にしてね」

と、言えなかったのだろう。



医者でありながら、
何も気づけなかった。



何も、できなかった。



あのとき、もし一言、



「大丈夫?」



そう聞けていたら。



ほんの少し、何かが違っていたのだろうか。



それとも、

何も変わらなかったのだろうか。



わからないまま、

ただ、思い出す。



夜のコンビニの、白い光。

コピー機の前に立つ、あの横顔。



「明日の準備をね」

そう言っていた声。



あのとき、

どうして私は、



「大丈夫?」



そう聞かなかったのだろう。



いまでも、

ときどき、

ふとした瞬間に思い出す。



そして、

何も言えなかったあの夜に、

静かに、戻っていく。

☕️

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