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『アメリカ語ものがたり』あとがき+

 ふとしたきっかけで手にした本書を何気なく読みはじめ、まずびっくりしたのは、メイフラワー号で海を渡った清教徒たちが初めて出会った先住民は英語を喋ったというくだりです。隣の部屋でアイロンをかけていた連れ合いに、ねえ、こんなこと知ってた、と思わず呼びかけてしまいました。著者も記しているとおり、歴史の本はあまりこのあたりのことを詳しく書かないのかもしれません。(先日、近くの図書館にでかけてアメリカ史のコーナーに並んでいる本の中から、この時代のことが書いてありそうなのを二冊選んでパラパラ捲ってみたら、どちらにもきちんと英語を話す先住民が移民たちを助けたという説明が載っていました。曖昧にしたがるのはアメリカの歴史書なのかもしれません。ただ……)イギリスのガーディアン紙(一九九四年七月五日)の書評も出だしから、「開拓民としてはなはだ準備不足のピルグリム・ファーザーズがどうやって地元のひとたちと話をして、作物を育てるコツを教えてもらい生き延びることができたのか、これまで考えてみたことがありますか」と読者に問いかけているところを見ると、イギリスでもこのことはあまり知られていないようです。
 「普段着のアメリカ英語史」という副題の通り、本書はアメリカ人が今しゃべったり書いたりしている英語がどのようにしてできあがったかを、建国の父たちの時代にまでさかのぼり、ひとびとの暮らしとのつながりをていねいに解きほぐしながら記しています。へえ、そんなことがあったのと思わされたり、そんなところじゃないかと思ったけど、やっぱりというようなエピソードがそれほど数えればきりがないくらい、よくまあこんなに集めたものだと感心するほどふんだんにちりばめられているのも本書の特徴のひとつ。おかげで大西洋を渡ってからの英語の変遷そのものにはさほど興味のない読者にも、とっつきやすい歴史書として楽しめそうです。
 たとえば偉人として名高いベンジャミン・フランクリンは独立宣言や憲法の起草に携わるかたわら、情婦の選びかたやおならを出さない方法について随筆も書いたし、「空の袋はまっすぐ立たない」とか「話し合いに応じた後では、要塞も処女膜も長くはもたない」といった、いかにも実用本位、単純明快な格言を数多く残していることなどは、知っておくとたんにアメリカという国に親しみが増すばかりではなく、人間そのものが懐かしくなってくるほどの効用があるのではないでしょうか。
 リンカーンについても、「人民の、人民による、人民のための国家」という名文句で結ばれた演説をしたあとで、「しくじった、しくじった」とひどく落胆の態であり、だいたいこの演説はあまり短かったので、公式カメラマンの撮影準備が調う前に大統領が着席してしまったなどという、今では考えられないようなエピソードもでてきます。
 なかでもとびきりおかしくて、訳しながら大笑いしてしまったのは、直流の電気を発明したエディソンが、交流の産みの親ウェスティングハウスになんとかケチをつけようとして考えたという「ウェスティングハウスする」という動詞です。くわしく経緯まで紹介すると笑ってばかりはいられなくなるので、ここでは省略しますが、後書きから読み始めたかたは、上巻XXページをちょっと開いてみてください。ね、おかしいでしょう。
 今では車がないとどうにも不便でしかたのないロサンジェルスが、かつてはアメリカで最も公共交通機関の発達していた都市だというのも意外でした。自動車産業の息のかかったボス議員が予算の配分を牛耳るあいだに、市電がたちゆかなくなり、道路ばかりができたというから驚きです。わが国でももちろんこれと似たようなけしからぬ事態が、わたしたちの知らないところでいくらも起こっているのでしょうが、ロサンジェルスの今昔には金の誘惑に駆られた人間たちの浅ましさがとてつもないスケールで現れているようで、空恐ろしいような、いくらなんでもそうなる前になにかしなくてはいけないような、複雑な気持ちにさせられます。
 著者のユニークさは、ふつうのアメリカ人が通り一遍の学校教育や、世間の常識に染まるうちにいつのまにか当然のことと受け入れている史実のいい加減さを明らかにしているところにもあるようです。独立宣言がフィラデルフィアで読み上げられたのは七月二日であって、ジョン・アダムズはこの日こそアメリカにとって記念すべき日だと考えていたとか、電報を発明したのはモールスではなく、師にあたるジョセフ・ヘンリーであるとか、多分あなたもこう思っているでしょうが、真相はこうなんですよという話もわんさと出てきます。もっともわたしたち日本人には、なにしろ遠い海の彼方の話ですから、そんな知識さえないことも多いので、へえ、今まで信じていたことは事実ではなかったのかという驚きよりも、なるほどそんなこととは知りませんでしたという反応になりがちでしょうが、まあ、それでも面白いにはちがいありません。
 それからたとえば野球用語のように、外来語として今では押しも押されぬ日本語になったことばの由来がわかるのも、本書の楽しみのひとつ。左腕投手をサウスポーと言うけれど、サウスは南のはずなのに、なんでそんな呼び方をするのか考えてみれば不思議ですが、そんな疑問も本書を読めばすぐに解けます。
 NBAの人気が飛び火して、このところ人気急上昇中のバスケットボールが誕生したのは一八九一年のこと、最初の試合の得点は一対〇、ゴールには桃を入れる籠を使い、球にはサッカーボールを流用したというのも面白いし、籠はすぐに網にかわったけれども、一九一二年までは底に穴を開けようと思いつくひとがいなかったので、シュートが入るたびに梯子をかけて球をとっていたというのも微笑ましいかぎり。「映画って面白いですね」というようなセリフをキャッチフレーズにしている評論家がいましたが、この本を読んでいると「映画」を「歴史」や「英語」におきかえても充分に通用するなという気がしてきます。

 それにしてもこうやってアメリカで使われている英語と、それを使っているひとびとの歴史をみてくると、ダイナミックさに圧倒されるというか、生命力の強さにほとほと感心して、ついため息をつきそうになります。著者も記しているとおり、活力の源泉のひとつは人種の坩堝であることなのでしょう。わざわざ故郷を捨てて遠い未知の国に渡ってきた一世がやる気満々なのは当然のこと、そうした親を見て育つ二世だってやはり相当に元気がよさそうです。つい最近FENラジオを聞いていたら、どこかの大学の教授がアメリカ経済の見通しについて話しているのですが、その訛りのすごいのにはびっくりしました。大都市では英語らしい英語をしゃべれないタクシーのドライバーやウェイターが多くなったという話がでてきますが、大学の教授にもそういうひとはいるのですね。大学時代の同級生がロサンジェルスに留学したところ、指導教官が移民の一世で、なにしろ授業の内容が聞き取れない、本人がヒアリングを苦手にしているからではなく、アメリカ人の学生たちも前もって教授の書いた教科書に目を通しておかないと、なにがなんだかちんぷんかんぷんだと言っているという話を聞いたことがあります。そういうひとでも教授になれるところがアメリカの活力の源なのでしょう。日本では日本語もおぼつかないひとが大学の先生になるのはかなり難しそうです。もっともこの話には後日談があって、友人がめでたく博士号をとって仕事探しを始めたころには、大学の教員になるには英語がうまくしゃべれることが条件になっていて、もともと口数が少ない質で英語にかぎらず話すのが苦手な友人はかなり苦労していました。それでもなんとか採用されて、今では終身雇用資格もとり中西部の街で立派に暮らしています。

 同じ英語とはいっても、イギリスの英語とアメリカの英語ではずいぶん違うことは、たとえば最近テレビで手軽に見られるようになった海外の放送局のニュースにちょっと耳を傾けるだけでも、すぐに実感することができます。BBCとCNNではアナウンサーの口調がまるで違い、おおげさにいえば、別のことばかと思ってしまうくらい。もともとはイギリスから海を渡ったひとたちが作った国のはずなのに、いつのまに、どうしてそんな差ができたのか、その歴史的な経緯は本書に詳しいのですが、ぼくにも個人的な体験がふたつほどあります。
 まずは英語を習い始めた中学校でのできごと。英語教育には熱心な学校だったのか、週に一時間、英語を母国語とする先生の授業がありました。ただ熱心なわりには今にして思うともうひとつ配慮の足らないところがあって、なぜか一年目の担任はアメリカ人、二年目がイギリス人だったのです。せっかく本物の英語に触れられるのだからというのでしょうか、それとも英語などまったく知らない子供たちが相手となればほかにすることもなかったのか、授業といっても英語の発音に慣れるのが精一杯で、もっぱら先生の発音する単語やかんたんな文をおうむ返しにくりかえすのに終始しました。そうして一年が経ち、先生が変わってイギリス人になりました。一年目のアメリカ人の先生はたいがいラフな服装で、たまにネクタイをしていても肘あて付きのツイードの上着などを羽織っていたのですが、二年目の先生はきちんと背広に蝶ネクタイをつけています。そして、このひとは最初の授業から生徒たちの乱れた発音の矯正に熱心に取り組みはじめたのです。今でも忘れられないのは、たしか四十一人いたクラスの全員がひとりひとり「アップル」の発音を直されたこと。たぶんアメリカ式に「ア」と口を横に広げてひしゃげた蛙の鳴き声みたいな音を出すのが、我慢できなかったのでしょう。澄ましたみたい口をすこし縦に長くして、「アー」とちょっと長めに言えるようになるまで、徹底的にしごかれました。結局その日の授業は、ただこの一語のために費やされたのです。
 というわけで、アメリカとイギリスでは英語の発音が違うということが骨身に染みたわけですが、それから十年ほどしてロンドンで半年ほど暮らしたときのこと。今度は発音ばかりではなく、単語そのものも同じでないことを印象づけられるできごとがありました。郷にいれば郷にしたがえと考えたのかどうかはよく思い出せませんが、とにかくせっかくイギリスで暮らしているのだから、ズボン吊りをしてチョッキを着てみようと思いたったのです。さっそくでかけた先は一二章でも活躍したセルフリッジ氏のおかげで日の目を見たというオックスフォード街。ただし入った店はセルフリッジ・デパートよりはもっと安い商品の多いマークス・アンド・スペンサーでした。売場を見渡したのですが、ズボン吊りらしいものがみつからないので、やむなく親しげな様子の若い男の店員に声をかけました。「サスペンダー(suspender)はどこらへんに置いてますか?」すると店員は怪訝そうな顔をして、「サスペンダーとおっしゃいましたか?」とこれまた疑問文で答えます。聞き返されると自分の発音が分かりづらいのかと不安になり、つい別のことばを探す癖がついていたので、「ズボンが落ちないように、ベルトの代わりに使うアレなんですけど」と言い換えました。すると店員はなんだというように笑顔を浮かべ、「ねえきみ、それならサスペンダーなんて言っちゃいけません。そりゃ、女のひとが靴下を留めるゴムのことなんだから。ガーターともいうけどね。気をつけないと、あらぬ誤解を受けますよ」。これにはびっくり仰天。ズボン吊りを探すのなら、 braces を探していると言わなくてはいけないと教えてもらい、その日は肝心の品物は買わずに退散しました。チョッキのほうはいくらかましでしたが、やはり vest では通じなくて、waistcoat でないと望みの商品は手に入らないということが分かりました。

 さて肝心の著者紹介が最後になってしまいました。ビル・ブライソンは一九五一年、アイオワ州ディモインの生まれ。一九七〇年代の初めから二〇年あまりイギリスで暮らした後、アメリカに戻り現在はニュー・ハンプシャーに家族とともに住んでいます。イギリスでは長く新聞社勤めも経験しています。著書には次のようなものがあります。

・A Dictionary of Troublesome Words
・The Lost Continent (一九九二年)
・The Mother Tangue  (一九九二年)
・Neither Here Nor There(一九九二年)
・Notes from a Small Island (一九九五年)

 こうしてみると旅行記と英語について書いた本がちょうど三冊ずつ、半々になっています。イギリスやアメリカでは故郷アメリカ中西部をテーマにした The Lost Continent、ヨーロッパ各地を駆け足でとびまわった旅の記録 Neither Here Nor There、そして長年暮らしたイギリスを離れる前に、ゆっくり島巡りをしながら、思い出も織りまぜて記した Notes from a Small Islandはどれもベストセラーになっています。サンデー・タイムズの書評には、ポール・セローの『大列車バザール』が引き金となって一九七〇年代の半ばに起きた旅行記ブームから生まれた最高におかしな本がビル・ブライソンのThe Lost Continentと Neither Here Nor Thereの二冊、それに終止符を打ったのがピーター・メールのプロヴァンス物二冊という指摘も見られます(一九九五年九月二四日)。ナショナル・ジオグラフィック・マガジンにもしばしば寄稿しているそうですが、雑誌の性格から察するに、これもおそらく旅行記でしょう。
 英語に関する著書としては英語そのものの歴史をテーマにした The Mother Tangueがよく知られています。                             
 ちょうど翻訳をすませたところに届いたイギリスのガーディアン紙の週間ダイジェスト版11月10日号に、「ファウラーが俗語の規制を緩和」という見出しの短い記事が載っていました。英語の用法の基準とされてきたオックスフォード大学出版会刊行の Fowler's English Usage が約七〇年ぶりに改訂され、単語、文法の両面でかなり俗語表現に寛容になったというのです。そこで挙げられている例のなかに、likeを接続詞として使う Nobody told me I would feel like I doはこれまで誤りとして非難されてきたけれども、今回の改訂版ではこれも認めているというのがありました。一四章に引用された煙草の宣伝文句 Winston tastes good like a cigarette shouldと同じ like の使いかたで、著者もどうやらこうした乱れには不満を抱いているような書きっぷりでしたが、とうとうその筋では最高権威とされる手引きからも認められる時代になったようです。もちろん言葉遣いにかぎらず、何もかも大慌てで変わってゆく世の中では、そうやすやすと変わってはやらないぞと意気込むひとのいることも、大切ですが。

 なお Made in Americaは一九九四年にまずイギリスの Secker and Warburg 社から刊行され、翌年アメリカでも Morrow 社から出版されています。翻訳にはイギリス版を主に使い、ところどころアメリカ版で新たに書き加えられたものを取り入れました。ただ二一章だけはイギリス版とアメリカ版では前後がすっかり入れ代わり、アメリカ版の構成のほうが収まりがよさそうなこと、それから最新の事情をあつかっている都合上、わずか一年とはいえ新しい版を使うほうが望ましいと思い、アメリカ版によることにしました。おしまいの方で、アメリカの教育水準はそんなに低くない、経済も大丈夫だとしきりに励ましているような部分がありますが、イギリス版にはそれがありません。ちょっと自画自賛気味もありますが、アメリカの読者はこういう励ましを必要としているのかなとも思いました。
 英語の単語、成句などには訳注として日本語の意味を括弧に入れておぎないました。ただその意味がひとつにかぎらない場合には、おもしろそうなものを優先して選んでいますので、万全とは言いにくいものも少なくありません。とくに英語に興味のあるかたには、お手もとの辞書にあたられるようにお勧めします。
 さきほども触れましたが中学では楽しく英語を勉強したものの、高校の授業は退屈なばかり、大学では一度も授業に出たことがなく、試験は外国帰りのクラスメートに代わりに受けてもらっていたくらいなので、英語についての知識ははなはだ心もとなく、本書の翻訳には手もとに各種の辞書をならべてとっかえひっかり首っ引きで調べましたが、それでも辞書に載っていない単語、成句、表現などがずいぶんありました。そのつど教えを乞うたのはロバート・ワーゴさんとテリー・シャーウィン。根気よく説明してくれおふたりと、ハリウッド映画の日本公開時のタイトルを調べて頂いたた森国次郎さん、縦横入り乱れる複雑な文章をていねいに編集してくださった坂本徳子さんにお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

               一九九六年一二月八日


 メイド・イン・アメリカ

 目次
 一.メイフラワー号とそれ以前の時代
 二.アメリカ人になる
 三.「民主主義という熱病」 独立戦争時代のアメリカ
 四.国づくり
 五.暁の曙光により・・・ 国民性の捏造
 六.みんなで大儲け・・・発明の時代
 七.名前
 八.「まぎれもない宿命」・・・じゃじゃ馬「西部」馴らし
 九.人種のるつぼ・・・アメリカの移民
 十.「足元の明るいうちに」・・・アメリカの旅行
十一.「どんな料理ができるの?*」・・・アメリカの食事
十二.だれにも手のとどく贅沢・・・アメリカの買い物
十三.日々の暮らしのなかで
十四.強引な売りこみ・・・アメリカの宣伝
十五.映画
十六.快楽を求めて・・・スポーツと遊び
十七.爆弾と法螺・・・政治と戦争
十八.セックスならびにお楽しみの数々
十九.キティ・ホークからの道
二十.宇宙時代へようこそ・・・一九五〇年代以降
二一.現在のアメリカ英語

 
 序章

 一九四〇年代のこと、デンマークとスウェーデンを隔てるカッテガト海峡の沖合八〇キロにちょこんと浮かぶアンホルト島をひとりのイギリスの旅人が訪れ、島の子供たちの囃したてるおかしな文句に耳をそばだてた。歌っている子供たちもになんのことやらチンプンカンプンなそのことばとは、

                 Jeg og Jill
                Vent op de hill
             Og Jell kom tombling after

よくよく調べてみると、この短い詩はナポレオン戦争のころに島を占領したイギリス軍の兵士たちによってもたらされ、それからの一三〇年間、こどもたちが何世代にもわたり意味もわからぬまま口移しに伝えてきたものであることが判明した。
 ロンドンに暮らすあるご夫婦が、このちょっとしたニュースを耳にして好奇心をそそられた。わらべ唄の研究に生涯をささげてきたピーター・オウピイ、アイオナ・オウピイのおふたりである。わらべ唄といえばこどもの遊びには大昔からつきものなのに、それまであまり陽の目をみることもなかったが、その成り立ちと分布の研究にだれにもまして精根をかたむけてきたのがオウピイ夫妻だった。ところがふたりは以前から『まゆをひそめて』という唄の不思議な運命に頭を悩ませてきた。『ハンプティ・ダンプティ』や『ヒコリー・ディコリー・ドック』に劣らぬ人気があり、一八世紀の後半まではわらべ唄の歌集にはたいていとりあげられていたのに、いつのまにか、これといった理由もないまま消えてしまったのである。一七八八年から後、この詩を採録した歌集はひとつもない。ところがある晩のこと、こどもたちを寝かしつけようとして乳母の歌うわらべ唄がかすかに聞こえてきた。お察しのとおり、『まゆをひそめて』である。一七八八年版の歌集とそっくりそのまま、しかもこれまで知られていなかった五行のおまけつきだった。
 さてここまで読んでこられて、アメリカでの英語の変遷をたどるはずのこの本と、わらべ唄にはいったいどんなつながりがあるのか疑問を抱かれた方もいるはずだ。この話をもちだしたわけはふたつある。ことばの歴史や特質は、ともすれば見逃されがちな、ささいな事柄を通じてしばしば明らかにされるということを指摘しておきたかったのがひとつ。たとえば、わらべ唄は変化に抗おうとする力がとても強い。意味がまるでわからないときでも、デンマーク沖の孤島に暮らす子供たちと『ジャック・アンド・ジル』の場合のように、いく世代にもわたって一言一句違えず、大切なまじないのように伝えられてゆくのがふつうである。そのせいで、どこの国のことばであっても、わらべ唄は古い時代の特徴を残していることがめずらしくない。『イーニー、ミーニー、ミニー、モー』はイギリスがローマ帝国に占領される以前の数の数えかたをもとにしたもので、ケルト族の渡来に先立つという説もある。もしそうなら、この唄はとても古い時代とわたしを結びつける貴重な名残りのひとつということになる。ストーン・ヘンジが造られたころのこどもたちの遊ぶ様子をかいま見させてくれるだけでなく、大人たちがどのように数を数え、ものを考え、話をしていたかについて知るてがかりもあたえてくれる。ささいなことでも、つまり、目をこらして見る価値はあるということだ。
 ふたつめに言っておきたかったのは、歌や単語、成句、はやしことばなどおよそ言語の一部をなすものならどんなものでも、オウピイ夫妻と『まゆをひそめて』の出会いからもわかるように、たれかがことさらに気づかなくとも生き長らえるものだということ。たとえ単語や成句が文献に記録されていなくとも、それはだれも記録するひとがいなかっただけのことで、ことばが存在しなかったということにはならない。チョーサーと同じ時代のイギリスに暮らしたひとびとは「なくした」とか「みつからない」という意味で、 be in hide and hairという言い回しをよく使った。しかしこの表現はそれからの四百年間というもの文献からはいっさい姿を消した後、一八五七年にいきなり意表をついてアメリカで neither hide nor hairのかたちでよみがえる。この成句が四世紀ものあいだ、失語症に罹っていたなどとはちょっと考えにくい。それでは四百年の間だれがこの言い回しを人知れず守りつづけたのか、そして一九世紀も半ばをすぎてから、三千キロ以上もはなれた異国の地で、なぜなんの前触れもなく檜舞台にまいもどってきたのだろうか。
 考えてみれば、アメリカ人は skedaddle(あわてて逃げる)だの chitterling(調理用の豚の小腸)、 chore(雑用)などといういかにもイギリス風な古めかしい単語を後生大事に守っておきながら、なぜ fortnight(二週間)、 heath(荒地)にはそっぽを向いたのか。colonel (大佐、カーネル)や hearth (炉辺、ハース)といったことばではイギリスの変則的な発音をとっておいて、lieutenant(中尉、リューテナント/レフテナント)、schedule(スケジュール/シェデュール)、clerk (店員、クラーク、「ア」の口の開け方がちがう)ではわが道を往くことにしたのか。ひとくちで言うなら、アメリカ英語はどのようにして今のかたちになったのだろうか。
 こうした疑問はわたしにはとても意義深く、興味津々に思えるのだが、かなり最近になるまでだれもそんなことは考えてみようともしなかったらしい。今世紀に入って相当の時が経過しても、米語のまじめな研究はほとんどといってよいほどまだ素人の手に委ねられていた。そうした素人のひとりにイギリス生まれの法律家で、長年にわたり寸暇を惜しみ植民地の草創期からの書物や雑誌、草稿に読みふけり、何百という米語に特有の表現の初出をつきとめたリチャード・ハーウッド・ソーントンがいる。ソーントンは一九一二年に『米語用語辞典』( American Glossary)全二巻を書き上げた。ところが学問的にもじつに貴重な価値のあるこの労作を、アメリカの出版社はどこもとりあげようとしなかった。つまるところ、この本はロンドンで出版されて、アメリカの学術界に永久に消えぬ汚点を記すことになる。
 一九二〇年代、一九三〇年代になってH・L・メンケンの不朽の秀作 The American Language、ジョージ・フィリップ・クラップの The English Language in America、ウィリアム・クリイギー卿とジェイムズ・R・ハルバートの共著による Dictionary of American English on Historical Principles がつぎつぎと出版されて、ようやくアメリカは自国のことばに関する疑問にまじめに応えようとする書物と出会ったのだった。ところがそのころにはすでに、何百、何千というアメリカ的な表現のかげにひそむ発想のきっかけや心のありようを探るすべもなかったから、今となってはなぜアメリカ人は paint the town red(「町を赤く塗る」転じて、「バーやクラブをはしごして、ばか騒ぎをする」の意)、talk turky(「七面鳥をしゃべる」転じて、「ざっくばらんに話す」の意)、take a powder (「粉をもらう」転じて、「さっさとずらかる」)したり、フライをノックするのに使うバットをfungo bat と呼ぶのかはだれもにわからなくなってしまった。
 本書は米語がどのような経緯を経て、またなぜ今日のような姿をとるようになったのかを考えるささやかな試みである。従来からあるアメリカ英語の歴史とはちがったものになるだろうし、またそうであってほしい。あちこちで厚かましくも脱線をくえかえすにちがいない。いったいぜんたいスタイヴサント・フィッシュ夫人が三度たてつづけに召使を轢いたことが、アメリカにおける英語の発達とどういう関わりがあるのか、はたまたジェイムズ・ゴードン・ベネットがレストランに行くたびに通りすがりのテーブルからテーブルクロスをひきはがす癖を死ぬまで改めなかったことが、アメリカ国民の言語面での発展とどのように結びつくものか、あなたが不審に思ったとしても、それは少しも著者に対して無礼はあたらない。わたしが言いたいのは、ことばを産みだす社会背景を理解しないと╶─╴自動車を生まれて初めて見たひとがその目新しさにどれほど心を揺さぶられたか、また前世紀末から今世紀の初めにかけ巨万の富を築いた資本家たちがいかに無謀な贅沢に明け暮れ、大衆とかけ離れ暮らしをしていたかを実感しないかぎり╶─╴米語をかたちづくることばや言い回しの豊かさや精彩を感じ取ることはできないだろうということである。
 おっと、わらべ唄をもちだした理由はもうひとつあった。わたし自身も興味をひかれたし、読者も楽しんでくださるだろうと思ったからだ。こういう本を書くつもりになってあれこれ調べ物をしていると、ちっとしたことで頭を悩まされることもめずらしくない。とてもおもしろいのに本筋とはまるで縁がないので、そのままほっておくしかないような話にでくわすのもそのひとつだ。そういうのをわたしはレイ・バデュック物語と呼ぶことにしている。レイ・バデュックに出会ったのは、まったく別のものを探して一九四一年分のタイム誌のバックナンバーを眺めていたときのことだった。その年のとある日曜日の朝はやく、バデュックはふと自家用の軽飛行機を駆って空の散歩としゃれこもうという気をおこした。そんな気になることがバデュックにはよくあったのだ。ここまではめずらしいことはなにもないのだが、バデュックの住まいがホノルルにあり、その早朝がなんと一九四一年一二月七日にあたっていたとなると雲行きは変わってくる。真珠湾沖に機首を向けると西の空には雲霞のごとき零戦の群れ、しかもそれがまっしぐらに殺到してくるのをまのあたりにして、バデュックは控えめに言っても、びっくり仰天した。日本軍の機銃掃射を浴びたバデュックは、思うに「こいつぁおったまげた」という類の趣旨のセリフを口走るやいなや、いきなり翼をかたむけ一目散に逃げ去った。そしておどろくべきことに、史上最大の空爆作戦のさなかにぶじ愛機を着陸させて珍しい体験を後世に伝えたばかりか、はからずも日本軍相手に戦闘状態に突入した最初のアメリカ人にもなったである。
 もちろん、これはアメリカ英語とはなんの関係もありはしない。でも、これから書くことはひとつのこらず関係あります。ほんとうに。

 一.メイフラワー号とそれに先立つ時代

 未開の地での暮らしにこれほど向かない集団というのもちょっと想像しにくい。旅支度だけを見ても、まるで旅の目的を勘違いしているとしか思われないほどだ。日時計にロウソクの芯切り鋏、太鼓やトランペットに加えてなんとトルコ全史まで詰めこむ余裕はあったらしい。ウィリアム・マリンズなる人物は短靴一二六足と長靴一三足を運びこんだ。ところが、乗客のなかにただのひとりも牛や馬、鍬や釣り糸をもってきたひとはいない。メイフラワー号に乗り組んだひとびとの職業をみると、仕立屋がふたり、印刷屋がひとり、商人数人、絹細工師、店番、そして帽子屋がそれぞれひとりずついる。厳しい環境で生き抜こうというときに、かれらが鍛えた腕前をいったいどのような場面で発揮できるものか、見当もつかない。軍事面の指揮を執ることになっていたマイルズ・スタンディシュ氏は、あまり背が低いので海老将軍の名で親しまれていたくらいだから、だれもが新天地で対決するものと覚悟していた野蛮な土人を威圧することなど、とても期待できそうになかった。このチビ将軍を別にすると、それさえ少々あやふやだが、一行のなかにはそれまで野性の動物に銃を向けたことのあるひとはひとりもいなかったらしい。一七世紀のヨーロッパでは、猟は貴族のものと相場が決まっていた。farmerを自称するひとたちでも家畜の世話に通じているのは珍しかった。なぜなら一七世紀、そしてその後もしばらくの間、farmerとは農園の所有者のことであって、そこで働く者を意味しなかったからである。
 一行は、ひとことでいってしまえば、危なっかしほど厳しい前途に対して準備不足であったし、火を見るより明らかな無能ぶりをまさに劇的に実証した。バッタバッタと屍の山を築いたのである。最初の二週間に六人が息絶え、翌月には八人、二月中にはさらに一七人、三月には一三人があの世に旅立った。メイフラワー号がイギリスへの帰途に着こうとした四月まで生き延びられたのはわずか五四人、しかもそのうちの半分ちかくは子供だった。ようやくたどり着いたばかりのあやふやな足場を自給自足の可能な植民地に変えるという遠大な作業に、これだけの人数でとりかかろうというのである・・・

・・・二ヵ月というもの、一行は原住民になんとか話しかけようと試みたけれども、姿をみかけたかと思うとインディアンはすぐに走り去ってしまう。ところが二月のある日のこと、親しげな物腰の若者が海岸にたむろす移住者の一団に歩み寄ってきた。サモセットと名乗るこの若者もよそものだったけれども、地元のワンパノアグ族にティスカンタムという名の友人があり、一行をこの友人に引き合わせてくれた。サモセットとティスカンタムは移住者にとってじつに頼りがいのある友となった。ふたりはトウモロコシの植え方や野禽の捕らえ方を教えてくれたうえに、地元の部族の酋長と仲良くやってゆけるように計らってくれた。間もなく、学校に通うよい子たちならだれでも知っているように、移民たちは栄え、インディアンたちと一緒に栄養たっぷりの感謝祭のご馳走に舌鼓を打てるようになった。こんな暮らしならだれにも文句のつけようがない。
 ここで当然、いったいどうやって移民団にこんなことができたのかという疑問が湧いてくる。東部に暮らす部族のことばはアルゴンキアン語と呼ばれ、単語がいくつもくっついて団子状になるおそろしく複雑な言語(というよりもいくつもの言語の集まった語族)で、初心者には発音すらおぼつかない子音の連なりがひんぱんにでてくる。その手ごわさ加減は、それから二〇年ほどしてコネティカット在ロジャー・ウィリアムズ氏がまとめた最初のアルゴンキアン語の手引きを見れば一目瞭然だろう(ついでに一言。ウィリアムズ氏の学問的業績にはもっと盛大に拍手喝采が送られてしかるべきである)。次の文を発音してみれば、難しさのほどが実感できますよ。

Nquitpausuckowashâwmen    わたしたちは百人います。
Chénock wonck cuppee-yeâumen?  いつ戻ってきますか?
  Tasûckqunne cummauchenaûmis いつから病気なのですか?
Ntannetéimmin 失礼します。

どうみても片手間に覚えられることばではないし、移民団のなかに外国語の得意なひとがいたわけでもないらしい。ティスカンタムの名を呼ぶのすらままならず、スカントと呼ばせてもらっていたくらいだ。さてその答えは、驚いたことに歴史書のほとんどがうまく言い抜けていることなのだが、サモセットとスカントが幸い好都合にも英語をしゃべってくれたので、移民たちはアルゴンキアン語を覚えなくともすんだのである。サモセットは片言ていどだったけれども、スカントのほうは達者もいいところだった(おまけにスペイン語までしゃべった)。
 はぐれ者のイギリス移民たちが一六二〇年にあの広大な大洋を越えたうえに、たどりついた先の新大陸では英語を話せるふたりのインディアンに迎えられたのというのはほとんど奇跡としか思われない。とにかく幸運だったのはまちがいない╶─╴ふたりがいなければ、移民団はおそらく生き延びられなかったろうし、虐殺されたとしてもちっともおかしくない╶─╴けれども、じつはさほどあり得ない話でもなかった。一六二〇年の「新世界」は、もうそんなに新しくもなかったのである。

 二.「民主主義という熱病」 独立戦争時代のアメリカ

 一七七六年の夏、フィラデルフィアに集まった代表たちの心に、イギリスに対する不満の根拠を明らかにする文書が必要だとの思いが宿ったとき、その任務はトマス・ジェファソンの手に委ねられた。わたしたちからすると、ジェファソンなら指名されて当然のように思われる。ところが、そうではなかった。
 一七七六年当時、ジェファソンは無名に近く、出身地のヴァージニアでさえほとんど名を知られていなかった。三三歳という年齢は代表のなかで若いほうから数えて二番目、経験不足のぽっと出の青年の感は否めない。第二回全国会議はこのジェファソンにとって、生まれ育った入植地から少しでも先にある広い世界の出来事にふれる初めての機会となる。第一回の全国会議の代表の選にはもれたし、第二回目にも出席の予定はなかった。ところが代表のひとりペイトン・ランドルフが間際になってヴァージニアに呼び戻され、出席できなくなったので、代理に指名されたのである。ジェファソンの評価はもっぱらその二年前に執筆した「イギリス支配下のアメリカの権利概要」に支えられていた。イギリスに対して海外の主要な植民地での振る舞い様を説いた、若気のいたりか厚かましく鼻っ柱の強いこの文章で、ジェファソンは筆達者としていくらか注目を浴びる存在ではあった。またヴァージニア選出の代表団の間ではディレッタント(当時はまだ軽蔑の意をふくまない。イタリア語のディレッターレから派生したこのことばは、何にでも喜びを見いだすひとを指していた)として知られ、よく本を読んでいる点では評価が高かった。この時代は多くの本を読んでいることに本当に大きな意味があったのである(ジェファソンは七ヵ国語に通じていた)。
 とはいいながら、ジェファソンが全国的な名声を博していたとはとうてい言いがたい。またジェファソンがそれを望んだような形跡もすこしもみられない。フィラデルフィアに行きたがっていなかったのはみえみえで、途中で本を探すの馬を買うのとぐずぐずしたあげくに、ようやく会議の場に顔をだしても、ろくに口をきこうともしなかった。「ずいぶん長い間となり合わせに座っていたのに、三言以上つづけて口にするのを耳にしたことがない」とジョン・アダムズがのちに不思議がっているほどだ。そのうえ論議もたけなわの一七七五年一二月にはヴァージニアの自宅に帰ってしまい、なんと五か月近くも会議に戻らなかった。できることなら会議をすっぽかし、独立宣言の起草などはだれかよそのひとに任せて、ヴァージニアの新しい憲章の執筆に加わりたかったにちがいない。そのほうがジェファソンにとってはよほど大切だったのだ。
 それなのに、ジョン・アダンムのことばを借りると「言い回しに独特の妙」があるというので、独立宣言を起草する五人のなかに選ばれてしまった。ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、そしてロバート・R・リヴィングストンが残りのメンバーで、この五人委員会が今度はジェファソンに原案の執筆を任せることにした。宣言の目的はジェファソンのみるところ、「これまでにだれも思いついたことのない新たな原理や主張を見いだすのでもなければ、これまでにだれも口にしたことのないことを言うだけではない。そうではなく、人類に対して、徹底した平易さ確固さによりだれもが了承せずにはいられないようなことばづかいによって、わたしたちの主張が常識に叶うものであることを明らかにする」ことにあった。
 ところが独立宣言はもちろんそれ以上のものである。ギャリー・ウィルズも記しているように、「おそらく政治理論として成立しながら同時に偉大な文学でもある唯一の現実的な政治の文章」として抜きんでた地位をしめている。書き出しの文をみてほしい。

(独立宣言の書き出し)

だれにでも理解できるわかりやすいかんたんなことばを使い、ジェファソンは後に記す思想の要点をよどみなく示したばかりか、しだいにひとを陶酔の境地に誘いこむ抑揚にまずここで弾みをあたえている。独立宣言の緒言は、ただそのリズムにのみ耳を傾けて読むこともできる。スティーヴン・E・ルーカスの指摘にもあるように、それはわずか二〇二語によって、「ジョン・ロックが政府の第二提言で数千語を費やした内容」を網羅した。「複雑な思想を手短かに、わかりやすい文章に凝縮した点で、緒言は一八世紀の散文体の規範となる」
 あまり知られていないことだが、宣言の文章は一から十までジェファソンのものというわけでもない。最近出版されたジョージ・メイソンのヴァージニア権利宣言草稿は、たんにジェファソンにインスピレーションを与えたと呼んですますことのできない内容をふくんでいる。独立宣言のなかでもおそらく最も有名な一節をみてみよう。

すべてのひとは平等であり、生命、自由、そして幸福の追求という何人にも奪うことのできない権利を創造主から与えられているという事実をわたしたちは自明のものと考える。

これをメイソンのヴァージニア版権利宣言と比べてみると、

すべてのひとは生まれながらに等しく自由であり、独立しており、生得の自然権を有している……いかなる取り決めによっても、ひとはその権利を子孫から剥奪することはできない。財産を取得、所有すること、そして幸福と安全を追求し、獲得することを通じて生命、自由を享受するのはそうした自然権の一部である。
「幸福の追求」は「幸福と安全を追求し、獲得すること」とくらべてずっとすっきりしていると言えるかもしれないが、この心を打つ言い回しもじつはジェファソンの思いつきではないのである。「幸福の追求」はほぼ一世紀も前にジョン・ロックが使いはじめ、それ以来、政治に関わる文章にはしばしば用いられてきた表現だった。
 多くのひとびとを鼓舞してきた名高い文章を彩ることばの数々も、これまたジェファソン自身の筆になるものではない。ジェファソンの草稿はかなり優美さの点で劣るうえに、饒舌の気味がある。

我々はこれらの真理を神聖にして否定しえないものと考える。その真理とはすべてのひとは平等であり、独立していること、また平等であることから生得にしてだれにも奪うことのできない権利を有すること、その権利とは生命の維持、自由、そして幸福の追求がふくまれる。

この文章が決定稿にみられる朗々とした響きを得るのは五人委員会の手で推敲を受けてからのことであり、その後さらに議会に提議されて丁々発止の論戦の的となった。議会はジェファソンが苦心して綴った文章に遠慮会釈なく手をくわえた。修正を求められたのは〆て四〇ヵ所。全体の語数のおよそ四分の一にあたる六三〇語が削除され、新たに一四六語がつけ足された。自作の文章を編集者に手直しされた経験のある作家の多くがそうであるように、ジェファソンも修正版は自分の書いた草稿と比べて悲しくなるほど劣っていると感じたのだが、作家の多くと同じように、ジェファソンの判断も誤った。編集によってこれほど見事に磨きのかけられた文章も珍しいくらいのものだ。手直しのしようもないくらいうまく書けているところ╶─╴とりわけ書き出しの一節╶─はきちんとそのままに残しているし、的外れだったりどうでもいいような部分はまず抜かりなく削っている。
 今では政治に関する英語の文章としてもっとも有名なもののひとつに数えられるまでになったこの緒言も、発表された当時はさほど目立たなかった。当時のひとびとが大胆さに驚き、注目したのは、国王に対する不満の数々を列挙した宣言全体の六割を占める部分だった。
 国王に対する二七の非難の多くは╶─╴ときには無茶なほど╶─╴誇張されたものとしかいいようがない……
 一〇番目を検討してみよう。「国王はおびただしい数の新しい役所を設け、雲霞のごとき役人の大群を送り込み、当地のひとびとを大いに悩ませ、その大切な糧を蕩尽した」 実際には雲霞のごとき大群といってもせいぜい五〇人ほどのもので、かれらの与えられた任務の大半は、たとえば密輸(ちなみに、ジョン・ハンコックがニュー・イングランド地方きっての金満家になったのは、この密輸で蓄財したためである)の防止などであって、どこからみても道理にかなったものだった……

 六.みんなで大儲け╶─╴発明の時代

 一八八一年七月二日の朝、ジェームズ・ガーフィールド大統領は独立記念日の祝日を家族の待つニュー・ジャージーの海辺の町で過ごそうと、国務長官のジェームズ・G・ブレインと肩を並べワシントン特別区の中央駅を歩いていた。マラリアの発作を起こして危篤状態に陥っていた夫人がようやく快復したところだったから、大統領が夫人のそばにいてあげたいと願うのは当然だった。大統領の身辺警護にあたる秘密警察は当時まだ存在していなかった。こうした場合、したがって大統領は文字通り公人ということばにぴったりだった。だれでもそばに近づけたし、この朝には実際にそうした男がひとりいた╶─╴一見おなしそうだが頭のネジがどこか緩んだ弁護士のチャールズ・ギトーなる人物が大統領に歩み寄ると、狙いをさだめて四四口径のリヴォルヴァーを二度発射してから脇に退いて逮捕されるのを待った。なんの資格もないのに、パリの首席領事に任命しろとしつこく大統領につきまとい、それまでもうるさがれていた男だった。
 国中が大統領の容体を案じて、息をひそめてニュースに聞き入った。全国各地の新聞はひきりなしに、おそろしくあけすけな言い回しを連ねた号外を本社前に掲示した。「大統領の眠りは浅く、宵の口に数回嘔吐した。滋養分を送りこむ浣腸が功を奏して大統領の生命は無事維持されている」 ニューヨーク・ヘラルドの社屋の壁に貼りだされたこの号外はその典型といってよい。
 大統領が意識を喪くしたり取り戻したりしている間にも、国家の代表する知識人たちが寝室に集められ、直腸にじかに栄養を送りこんで生命を支える以外にもうすこしなにか症状の快復に役立つ手当ての方法はないものかと思案をかさねた。そのころ名声を究めていたアレグザンダー・グレアム・ベルは、発明したばかりの電話を利用してこしらえた携帯型金属探知機を「誘導計」と名付け、これを病室にもちこんだ。大統領の体内に埋まったままの弾丸の位置をつきとめるようという目論見である。ところがベルをたじろがせるような反応が起きた。弾丸は大統領の体内全体にばらまかれているとしか思えないのである。しかしまもなく、機械はベッドのバネに反応していたことが判明した。

 十一.「どんな料理ができるの?」

 まだ豊かとはいえないアメリカ人たちも、しだいにさまざまな野菜や果物に馴染んでいった。とはいえことばを手がかり当時の事情を探ってみると、食べ方がいつでもよくわかっていたわけでもないらしい。ジャガイモを例にとっても、『歴史法則に基づくアリカ英語辞典』の一九世紀の項にはポテト・カスタード、ポテト・チャウダー、ポテト・ポウン(パン)、ポテト・プディング、ポテト・コーヒー等々なんとも珍しい創作料理の名前が記録されているからである。こうした料理の大半はおそらくものは試しの精神か、はたまた空腹のあまり後先も弁えず嚥下されたのであろうし、アメリカ料理の歴史に名を残すは至らなかったものと想像される。

 十三.日々の暮らしのなかで

 イギリス人はアメリカ人の英語の使い方を毛嫌いしたばかりか、アメリカ人の習癖にも我慢がならなかったようだ。一九世紀にはアメリカ人の暮らし方や癖に対して異様としか思えないほどほど刺々しい偏見を剥き出しにした本が相次いでイギリスで出版されている。ウィリアム・コベットの『アメリカ合州国で暮らした一年間』、ハリエット・マーティノウの『アメリカの社会』、ディケンズの『アメリカン・ノート』、フランセス・トロロープの『アメリカ人の家庭作法』、フランシス・ライトの『アメリカの社会と礼儀見聞』、トマス・ハミルトンの『アメリカの人と習慣』など、それこそ枚挙に暇がない。
「乗客となると」のことばで始まるトマス・ハミルトンの文章の調子はまずその典型にあげられるだろう。「本当のことだから言わずにすますわけにもいかないのだが、あれほど胸の悪くなるような所業を人間がするのにはついぞお目にかかったことがない。品行、行儀どちらをとっても憎んであまりある」。ウィリアム・コベットの考えでは、「現地の人間たちは生まれつき怠け者で、ひとを騙して暮らそうという魂胆である」。フランシス・トロロープとなると、もうなにからなにまで気に入らなかったようだ。

ごくふつうのテーブルマナーの徹底した欠如、食物を強奪し貪るおそるべき勢いと素早さ、珍妙にして無様な言い回しと発音、闇雲に吐き散らされる唾(その汚染から服を守るすべはない)、ナイフで物を食べるというおぞましい習慣(刀身をすっぽり口に入れてしまうのだから恐れ入る)、それよりもっと気味の悪いのは、食後にポケットナイフで歯をせせる悪しき習癖。これだけ見せつけられれば、周りのひとびとが伝統ある世界の将軍、大佐、少佐とは縁もゆかりもないこと、またこの地では食事の時間を楽しむなど夢のまた夢であると思いしらされる。

トロロープ夫人の抱いた印象をひとことでまとめると、アメリカ人は「ただひとりの例外もなく行儀の良さ、優雅な物腰の欠乏症」に罹っているのだった。

 十五.映画

 スターたちがあらかじめ名前を変えていないとなれば、似た者同士の集まった心地よい天国、すなわちハリウッドになによりぴたりの名前をスタジオが考えだしてくれた。名前を変える理由ならほとんど数限りなくあった。面白みがない、風変わりすぎる、あたりまえすぎる、長すぎる、短すぎる、民族との結びつきが強すぎる、ユダヤ人だとひとめで分かってしまう等々。ただ、全体を通してみれば、スタジオのボスたちの判断に誤りはなかったといえそうだ。だいたいジョン・ウェインがマリオン・モリソンだったりジュディ・ガーランドがフランセス・ガム、メアリ・ピックフォードがやぼったいグラディス・スミスだなんて想像できないでしょう? スパングラー・アーリントン・ブラクスなんて名前は中学校の技術家庭科の教師としか思われない。でもこれをロバート・テイラーにすれば、もうスターへの階段を半分は昇り終えたも同然だ。アーチー・リーチは食料品屋の使い走りをする子供にはぴったりだとしても、世慣れた好男子となればどうしたってケイリー・グラントでなくてはならない。ドリス・カッペルホッフではチョコレート気違いのおでぶさんできみの弟の子守がせいぜいだが、ドリス・デイなら人気者のクォーターバックとデートが楽しめる。ちびのモーティマー・マウスでさえ、一九二三年に世に出てから四年後には、ミッキー・マウスと名を変えたくらい。                                    

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