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「何もない」けれど「何でもある」―― 映画のような旅の断章

何もない。
けれど、何でもある。

――紀伊半島の南部を旅して、そう思った。

正直、つらかった。
どこまでも続く山と海。
果てしない坂道。
自転車を走らせながら、時折通り過ぎる車に集中力を持っていかれる。

風景は美しい。そして、その美しさは、どこか厳しく、孤独でもあった。

旅のすべてを言葉にしようとしても、拙い筆力では到底追いつかない。
どれほどの単語を使っても、この土地の「空気」や「温度」までは記録できないのと同じように。

“知っているようで、知らない日本”
それを、まるで異国の言語で眺めているような日々だった。

本州最南端の岬、串本で日の出

小さな映画館で出会った「現実」

旅の終着点、和歌山。
ふと立ち寄ったのは、日本で最も小さい映画館と言われるシネマ203

シネマ203の上映会場
アパートの1室を間借りしているようなつくり

その小さなスクリーンで観たのは、
震災後の福島をテーマにしたオムニバス映画
『LETTERS FROM FUKUSHIMA』

7人の監督が、それぞれの視点で切り取った福島の姿。
観客は、自分ひとりだけだった。
この映画のために用意されたかのような、
過去数日間の経験と貸し切りの空間。

上映後、館長の女性と長いこと話し込んだ。
映画のこと、仕事のこと、生き方のこと。
まるで、人生そのものを語り合うような時間だった。

映画は二部構成だった。
後半は、監督たちがどのように作品を作り上げたかを追った180分のドキュメンタリー。
けれど、自分は前半だけで十分だった。

なぜなら、スクリーンに映し出される映像は、
今まさに自分が旅の中で体感しているものそのものだったからだ。

震災直後、ボランティアとして福島に滞在したことがある。
そこで見た光景。触れた人々の想い。
それらが、映画の一つ一つのシーンと重なっていた。

言葉が現実なのか、現実が言葉なのか
その境界線が、わからないけれど。

「現実」という名のドラマ

ある人にとって、現実は退屈なものかもしれない。
ある人にとっては、ただ淡々とこなす日常。
ある人にとっては、哀しみ、葛藤、そして耐えがたい孤独。
そしてまた、ある人にとっては、俯瞰して見れば面白い「ドラマ」なのかもしれない。

自分は、文学者でもアーティストでもない。
けれど、旅をしながら考えていた。

「何もないように見えるこの土地の豊かさを、出会った人たちにどう伝えたらいいのか?」

人の欲望に訴えかけるのか。
それとも、自分の心の奥底から湧き上がるものに任せるか。

確かに、
館長の言葉のように、
今の時代、人々の目の輝きが失われつつあるのではないかと思う。

情熱が見えない。
パワーが感じられない。

それは、資本主義が生んだ“産業廃棄物”のせいなのか。
核兵器、環境汚染、無機質な思想の氾濫。
あるいは、過剰な規制や抑制――泣くことも、笑うことも、心からの活力を見出すこともできない社会。

もしかすると、教育の問題かもしれない。
多様性が広がる一方で、指導する人がいない。
情報が多すぎて、何を目的にすればいいのか見えなくなる。
目移りするほどの広告に埋もれ、本当に大切なものがわからなくなる。

全てが、絡み合っている。

偉そうなことを言っているが、
自分もまた、どこへ向かっているのかわからず、
生きていて何を得られるのかも掴めず、
ただ浮遊しているだけの存在なのかもしれない。

でも

和歌山にたどり着いて、人と出会い、話し、学ぶことの楽しさを改めて知った。


表の通りで館長さんに撮ってもらった

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