フランス人形部長
重要な決断は、だいたい人形と相談してから
うちの部長は、いつもフランス人形を抱えている。
白いレースのドレス。
金色の巻き髪。
青く澄んだガラスの瞳。
名前は「マドレーヌ」というらしい。
部長は五十二歳。
マドレーヌは推定百二十歳である。
二人は、毎朝そろって出社する。

「おはようございます、部長」
部長は静かにうなずく。
すると、抱えているマドレーヌが甲高い声で言う。
「おはよう。今日も顔色が悪いわね」
部長の口は、ほとんど動いていない。
腹話術である。
しかも、かなりうまい。
すべての判断は、二者協議で行われる
うちの部では、何かを決める前に必ず部長の承認が必要だ。
ただし、正確には部長一人の承認ではない。
部長とマドレーヌ、二名の承認が必要である。
「部長、新商品のリリース日ですが、来月十五日で進めてもよろしいでしょうか」
部長はすぐには答えない。
まず、膝の上のマドレーヌと目を合わせる。

「どう思う、マドレーヌ」
「少し急ぎすぎじゃないかしら」
「私もそう思っていた」
絶対に今、初めて思った顔をしていた。
「では、二十二日に延期しよう」
こうして会社の重要な日程が、フランス人形の意見によって一週間延びた。
議事録には、
部長判断により、リリース日を二十二日に変更
とだけ記載された。
さすがに、
マドレーヌ氏より、スケジュールが拙速との指摘あり
とは書けなかった。
人形のほうが厳しい
部長本人は温厚な人だ。
部下が多少ミスをしても、声を荒らげることはない。
「次から気をつけてくれればいいよ」
と優しく言ってくれる。
しかし、そこで終わらない。
部長は必ずマドレーヌを見る。
「マドレーヌはどう思う?」
「同じミス、今月三回目よ」

会議室の空気が一瞬で凍る。
「本人も反省しているから」
「反省で売上は戻らないわ」
部長より人形のほうが正論を言う。
しかも、マドレーヌは過去のミスを正確に覚えている。
部長が忘れていることまで覚えている。
「先月の二十八日にも、似たようなことがあったわね」
「そうだったかな」
「議事録の四ページ目よ」
人形が議事録のページ数まで記憶している。
中身は部長なのだから、部長が覚えているはずなのだが、なぜか部長本人は本当に驚いている。
人格が完全に分かれている。
会議では一席多く用意される
最初の頃、マドレーヌは部長の膝の上に座っていた。
しかし、役員との会議中に専務が言った。
「その人形、机の上に置いたらどうかね」
部長は少し考えたあと、静かに答えた。
「マドレーヌは、机の上に置かれるのを嫌がります」
専務はそれ以上何も言わなかった。
翌月から、会議室には人形用の椅子が用意されるようになった。

出席者一覧はこうだ。
専務
本部長
部長
課長
マドレーヌ
マドレーヌには社員番号がない。
それでも発言力は、課長より強い。
ある会議で課長が新規企画を説明した。
「若年層向けに、SNSを活用したキャンペーンを――」
「若者を理解しているつもりなの?」
マドレーヌが遮った。
課長は五十六歳だった。
「いえ、調査データをもとに……」
「あなた、最後にSNSへ投稿したのはいつ?」
「見る専門でして」
「それを世間では、やっていないと言うのよ」
課長は企画書を閉じた。
その日から、課長は毎朝短い日記をSNSに投稿するようになった。
内容はほぼ天気だった。
部長と人形で意見が割れることもある
いつも二人の意見が一致するわけではない。
むしろ、ときどき激しく対立する。
「今期は経費を削減するべきだ」
部長が言う。
「人材育成費まで削るつもり?」
マドレーヌが反論する。
「会社の状況を考えれば仕方ない」
「将来への投資を止める会社に、将来はないわ」
「理想論だ」
「あなたは昔、もっと夢のある人だった」
部長が黙る。
会議室にいる全員も黙る。

誰も、この夫婦喧嘩のような腹話術へ割って入れない。
やがて部長が小さくため息をついた。
「分かった。研修費は残そう」
「最初からそうすればいいのよ」
結局、マドレーヌが勝つ。
部長は部長でありながら、人形に決裁を覆されることがある。
社員の間では、
「本当の部長はマドレーヌなのではないか」
という説が有力になっていた。
採用面接にも同席する
ある日、中途採用の面接に部長が参加した。
当然、マドレーヌも一緒だった。
応募者は部屋に入った瞬間、一度立ち止まった。
しかし、社会人経験が豊富なのだろう。
何も見なかったことにして席へ着いた。
面接は順調に進んだ。
経歴も申し分ない。
受け答えも明快。
専門知識も豊富だった。
部長は満足そうにうなずいた。
「最後に、マドレーヌから質問があります」

応募者の表情が初めて崩れた。
マドレーヌが尋ねる。
「あなたは、意見の合わない上司と仕事をするとき、どうするの?」
応募者は少し考えた。
「まず相手の考えをよく聞きます。そのうえで、自分の意見も率直に伝えます」
「相手が人形でも?」
応募者はマドレーヌを見た。
そして真剣な表情で答えた。
「肩書きや外見ではなく、発言の内容で判断します」
採用された。
現在、その人はマドレーヌ直属の部下のようになっている。
飲み会では人形も一杯注文する
部の飲み会にも、マドレーヌは参加する。
店員が人数を確認する。
「八名様ですね」
するとマドレーヌが言う。
「九人よ」
店員は人形を見る。
部長も店員を見る。
店員は何かを理解した顔で、九人分のおしぼりを置いた。
マドレーヌの前にも小さなグラスが置かれる。
部長が白ワインを少量注ぐ。
誰も止めない。
宴会が進むと、部長は少しずつ酔ってくる。
腹話術も雑になる。
「お前たちぃ、もっと本音で話せよぉ」
部長の口が完全に動いている。
しかし声はマドレーヌの高い声だ。
社員たちは誰も指摘しない。
「マドレーヌさん、最近の部長をどう思いますか」
若手社員が尋ねた。
「判断が遅い。資料を読み込んでいない。あと健康診断の再検査に行っていない」
「余計なことを言うな」

「あなたのためを思って言っているのよ」
「分かっている」
その瞬間だけは、普通に仲のよい夫婦に見えた。
片方は人形だったが。
最大の危機
ある朝、部長が一人で出社した。
マドレーヌがいない。
部内に衝撃が走った。

「部長、今日は……」
「ああ。マドレーヌは修理に出している」
腕の関節が緩くなったらしい。
部長はいつも通り仕事を始めた。
ところが、決断できない。
「部長、この申請は承認でよろしいでしょうか」
「うーん……」
「部長?」
「マドレーヌなら、どう言うかな」
三十分たっても結論が出ない。
別の案件が来る。
「こちらの予算配分はどうしますか」
「ちょっと待ってくれ」
「いつまででしょうか」
「マドレーヌが戻るまで」
修理には二週間かかる予定だった。
その日の午後、部内の業務はほぼ停止した。
誰もが初めて気づいた。
部長がマドレーヌに相談していたのではない。
部長は、マドレーヌがいなければ何も決められなくなっていたのだ。
代理マドレーヌ制度
緊急会議が開かれた。
議題は、
マドレーヌ不在期間における意思決定体制について
である。
課長が提案した。
「似た人形を用意してはどうでしょう」
部長は首を横に振った。
「マドレーヌは一人しかいない」
正論のように聞こえるが、会社の会議で話す内容ではない。
若手社員が恐る恐る手を挙げた。
「マドレーヌさんなら何と言うか、みんなで考えてみるのはどうでしょう」
部長が顔を上げた。
「なるほど」
それから部では、重要案件が出るたびに社員全員で考えるようになった。
「マドレーヌさんなら、この数字を見て何と言うだろう」
「根拠が弱い、と言うと思います」
「現場の声を聞いていない、とも言いそうです」
「あと、部長の資料は文字が小さいと言うでしょうね」
「それは今関係ないだろう」
議論は以前より活発になった。
部長一人が人形と相談するより、全員で意見を出したほうが、はるかに早く結論が出た。
二週間後、修理を終えたマドレーヌが戻ってきた。
部長はうれしそうに彼女を抱えて会議室へ入った。
「みんな、マドレーヌが戻ったぞ」
社員たちは拍手した。

マドレーヌが部内を見回す。
「私がいない間、ずいぶん成長したようね」
誰も、それが部長自身の感想だとは思わなかった。
そして部長は昇進した
半年後、部長は本部長へ昇進した。
組織をまとめる力と、部下から意見を引き出す姿勢が高く評価されたらしい。
昇進発表の日、部長はいつものようにマドレーヌを抱いていた。

「おめでとうございます、本部長」
社員たちが祝福する。
部長は照れくさそうに頭を下げた。
「ありがとう。これも皆のおかげだ」
そして、マドレーヌを見る。
「君もありがとう」
「当然よ。私の指導がよかったのだから」
人事部から新しい名刺が届いた。
部長の肩書きは、
営業企画本部 本部長
になっていた。
そして、もう一枚。
誰が申請したのかは分からない。
営業企画本部 特別顧問
マドレーヌ
と書かれた、小さな名刺が入っていた。
部長はそれを見て、しばらく黙っていた。
やがてマドレーヌが言った。
「悪くないわね」
部長もうなずいた。
「私もそう思う」
この会社では今日も、重要な決断が二人の相談によって行われている。
ただし最近は、本部長より先にマドレーヌの予定を押さえなければ、会議を設定できない。

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