『チェンソーマン』第2部——人気の絶頂で、作者は自分の代表作を食い破った
※本記事は第2部最終話(第232話)までのネタバレを含みます。
レゼ篇の熱狂と、その真横で進んでいた自己解体
2025年、劇場版「レゼ篇」が大ヒットし、『チェンソーマン』は名実ともに国民的コンテンツの座に就いた。その熱狂の真横で、原作は静かに、しかし執拗に自分自身を解体し続けていた。少年ジャンプ+で2022年7月に始まった第2部(第98話〜)は、2026年3月25日掲載の第232話で完結。単行本では第12巻以降にあたるこの後半戦は、第1部の疾走感を期待した読者を戸惑わせ、最終回に至っては「物語を放り投げた」という批判と「作家性の貫徹」という擁護が真っ二つに割れた。
この分裂は事故ではない。第2部は最初から、ヒット作の続編という制度そのものを疑う漫画だったからだ。商業的絶頂と物語の自己破壊が同時進行するという、少年漫画史でもほとんど例のない光景。これを「失速」の一語で片づけるのはあまりにもったいない。
三鷹アサという迂回路、あるいはデンジを直視しないための視点
第2部の最大の決断は、主人公の交代だ。物語は戦争の悪魔ヨルと同居することになった女子高生・三鷹アサの視点で始まり、デンジは「チェンソーマンの正体を明かしたくてたまらない高校生」として脇から再登場する。承認されたい、モテたい、普通の生活も欲しい——第1部で世界を救ったはずの少年が、第2部では自己顕示欲と生活の板挟みでもがき続ける。
批評家・成馬零一はリアルサウンド(2026年4月)で、第2部を「作者=デンジの葛藤が全面に出た私小説的な作品」と評し、デンジの曇った表情に「人気漫画家になった藤本タツキの困惑がそのままにじみ出ている」と読んだ。この読解は正しいと思う。誰もがチェンソーマンになれると説くチェンソーマン教会の胡散臭さは、ヒーロー(=ヒット作)が大衆に消費され複製されていく過程の戯画そのものだし、デンジが疑似家族として守ろうとしたナユタの喪失は、この作品が「普通の幸せ」を主人公に決して許さないことの残酷な宣言だった。
一方で言い切っておくべき欠点もある。アサとヨルの物語は、少女漫画的な文法——不器用な少女の恋と自意識の劇——を導入しながら、死の悪魔をめぐる終盤の展開に呑み込まれ、十分に回収されたとは言い難い。概念の消滅と復活というシステマティックな設定が前面化するにつれ、話は観念的に難解になり、第1部の「読めばわかる」強度は確実に失われた。ここは擁護しない。
引きのコマは雄弁に、物語は寡黙に
それでも画面は一貫して雄弁だった。藤本のコマ運びの特徴である固定カメラ気味の引きの構図——キャラクターの感情を大写しにせず、突き放した距離から状況だけを見せる映画的な画面設計——は第2部でさらに徹底されている。白眉は落下の悪魔のシークエンスだ。アサの罪悪感と根源的恐怖を「落下」という垂直方向の運動に翻訳し、ページをめくる行為そのものを落下の体感に変えてしまう。横スクロールで読ませるウェブ連載の器で、紙のページ体験を逆手に取った演出をやってのける作家は多くない。永遠の悪魔が再登場する水族館デートで、アサが建物ごと巨大な剣に変えてしまう見開きの馬鹿馬鹿しい爽快さも、理屈の漫画になりかけた第2部に肉体を取り戻させる瞬間だった。
編集面で見れば、第2部がジャンプ+という無料ウェブ媒体の看板として、週刊少年ジャンプ本誌の文法から解放された場所で描かれたことも大きい。人気投票的なテコ入れの気配がなく、休載を挟みながら作者のペースで進む連載は、良くも悪くも「読者への奉仕」より「作家の追求」を優先する構造だった。第2部の難解さは、この誌面戦略が許した自由の代償でもある。
ポチタが自分を食べるとき、何が壊されたのか
最終回、ポチタは自分自身を食べ、チェンソーマンという概念のない世界を作る。デンジは第1話冒頭と同じ極貧生活に戻り、記憶のないパワーと再び契約し、アサは「ありがとうチェンソーマン」と告げる。物語の蓄積を丸ごとリセットするこの結末を、打ち切りめいた放棄と読む批判は理解できる。232話分の感情の投資に対する返礼としては、あまりに素っ気ない。
だが藤本タツキとは、『ファイアパンチ』の頃から一貫して、自分が大切にしているものですら容赦なくぶっ壊す暴力性を本質としてきた作家だ。『ルックバック』や『さよなら絵梨』で創作の葛藤を描いた短編作家が、長編の最後に選んだのが「代表作という概念そのものの抹消」だったことには、ぞっとするような整合性がある。ヒットの絶頂で、作者はチェンソーマンをチェンソーマンから解放した。物語としては破綻すれすれ、態度表明としては完璧。私はこの結末を、美しい着地だとは思わないが、誠実な自壊だとは思う。
数字の上での成功と批評的な達成が別物であることを、これほど身をもって示した少年漫画はない。急いで結論を出さず、第98話からもう一度ゆっくり読み返すに値する——賛否の「否」を含めてなお、そう言い切れる作品である。
