『プラダを着た悪魔2』キーボード付き携帯を打つ時代から、GLP1を打つ時代へ。物理ボタンと紙媒体の葬列。
ブラックベリーのキーボードを親指で叩いていた時代から、GLP1で食欲を制御し、卵子を凍結して未来を保存する時代へ。プラダを着た悪魔2には、20年分のアメリカ社会の価値観変化が数秒のセリフとして埋め込まれていた。
■ブラックベリーからオゼンピックへ至る20年の「最適化」という病
映画館の暗闇で、私は猛烈な文明の時差ボケに襲われていた。

前作公開は2006年。スクリーンの中のニューヨークでは、エリートたちが絶滅危惧種のブラックベリーを高速操作している。
若い読者には補足が必要。
ブラックベリーとは、iPhone降臨前夜に世界を支配していた「仕事できそう感」の塊みたいな携帯電話である。
黒い。四角い。やたら小さい。そして物理キーボードが付いている。

画像:Wikipediaより
当時のアメリカ映画では、ブラックベリーを親指でカチャカチャやっているだけで、「私は24時間働けます。しかも年収高いです」という圧を出せた。今見ると、大人が携帯ゲーム機で仕事しているようにしか見えない。だが2006年、人類はあれを「知性」と呼んでいたのである。
面白いのは、そのわずか翌年の2007年にiPhoneが出ることだ。文明はたまに、前夜だけ異様に美しい。ブラックベリーもそうだった。ガラケーの完成形が、次の日に絶滅する。恐竜みたいな話である。
■TSUTAYAと延滞料金があった時代
そしてこの20年で消えたのは、物理キーボードだけではない。「不便を楽しむ能力」そのものが絶滅した。
昔、コンテンツを見るにはTSUTAYAへ行った。棚をうろつく。貸出中を見て落胆する。返却された瞬間を狙う。DVDケースを持ち帰るあの妙な達成感。延滞料金への恐怖。深夜返却ポストへ走る人類。返却のため出向いたのに、肝心のDVDを入れ忘れたときもあった。
あれは今思えば、かなり豊かな無駄だった。
今は違う。アルゴリズムが、「お前はこれ好きだろ」と勝手に作品を流し込んでくる。人類は便利になった。その代わり、偶然を失った。
■紙の雑誌が「神」だった頃
さらに今回の映画で興味深かったのは、ファッション雑誌という「紙の権威」の死に方である。
2006年当時、ファッション誌編集長は神だった。誌面に載る。表紙になる。それだけでブランド価値が変わった。つまり、マスメディアに「重力」があった時代である。
だが2026年、紙媒体はもはや絶滅危惧種を通り越し、文化財保存対象みたいな顔をしている。1か月前に校了した情報を紙に印刷し、トラックで運び、本屋に並べる。冷静に考えると、かなり悠長なビジネスモデルである。
一方、TikTokは15秒で世界を変える。しかもアルゴリズムは容赦がない。編集哲学も歴史もブランドも関係ない。反応が悪ければ死ぬ。集中治療室よりシビアである。
■それでもプロフェッショナルは死なない
今回の映画が面白かったのは、その「メディアの死」を単なる悲劇として描いていないところだった。
紙が死ぬ。雑誌が売れない。権威が崩壊する。
そんな時代に、どうやってプロフェッショナルとしての矜持を保つのか。ここが実は本作の核心だった気がする。
これは出版だけの話ではない。医療も同じである。
昔は専門医が強かった。今はショート動画のほうが強い。学会発表より、SNSの切り抜きのほうが拡散する。しかも間違った情報ほど伸びる。人類の前頭前野は、思ったより長文に弱い。
だが、だからこそ逆説的に、「本当に編集できる人」の価値は上がっている気もする。
情報が少ない時代は、知っているだけで価値だった。
今は違う。情報が多すぎる。だから、何を削るか。何を残すか。何を信じないか。そこにプロの仕事が残っている。
■オゼンピックと卵子凍結という2026年
そして今回、2026年のニューヨークを象徴していたのが、オゼンピックと卵子凍結だった。
2006年の成功者は、ブラックベリーで時間を管理していた。2026年の成功者は、薬と医療で身体を管理している。
食欲を抑制する。老化を遅らせる。妊娠可能年齢を保存する。人生そのものが、OSアップデート化している。しかもアップデート通知は永遠に来る。
美容。健康。キャリア。出産。体型。全部最新版でいることを求められる。かなり疲れる。
だが結局、ブラックベリーもオゼンピックも、根底にあるのは同じだ。置いていかれる恐怖である。
■2046年には何が笑われているのか
人類は20年前からずっと、「時代に遅れること」に怯えている。
違うのは、昔は親指でメールしていたこと。今は脇腹にGLP1を打ちながら、アルゴリズムに最適化されていることだ。
2046年には、スマホを指で触る行為そのものが、「原始的な肉体労働」として扱われているのかもしれない。
■人類は20年前からずっと同じ病気にかかっている
「老いる」
「太る」
「置いていかれる」
という、極めて予後不良な疾患である。20年後も同様だろう。それでも時代に合わせて自分を最適化する行為も変わらない。
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