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1分1秒の命を管理する男、生命の危機に瀕する(18日目)

午前6時00分。
アラームが鳴るコンマ1秒前に、私の目は完璧な覚醒を迎えた。
今日の私は、朝から完全に「仕上がって」いた。
朝のカンファレンスから始まり、午前中のクリニカルワークを分単位のスケジュールで無駄なく消化。そして迎えた午後の大一番、複雑な脳動脈瘤のオペ。
カテーテルの挙動、血流の動態、麻酔の深度。すべてが私の大脳皮質で完璧にコントロールされていた。想定されるすべての合併症(コンプリケーション)を先読みし、一切の危なげもなく、予定終了時刻「15時00分」の1分前、14時59分にすべての手技を完了した。
続く患者家族へのIC(インフォームド・コンセント=病状説明)。
専門用語を噛み砕き、不安に寄り添いつつも、論理的で安心感を与える完璧なプレゼンテーション。家族の目に浮かぶ安堵の涙と、「先生にお願いして本当によかったです」という感謝の言葉。
今日の私は、間違いなく「神の手を持つ完璧な脳外科医」だった。
私は心地よい疲労感と、プロフェッショナルとしての確かな誇りを胸に、いつもより少し早く病院を後にした。
「早く帰って、この完璧な1日の余韻を妻と分かち合おう」
そんな温かい感情を抱きながら、自宅のドアを開けた。
「ただいま!」
――その瞬間、私の皮膚の表面温度が、急激に2度下がったのを感じた。
玄関からリビングに続く廊下が、物理的に「絶対零度」だった。
リビングのソファには妻が座っていた。テレビは消えている。彼女は私を見ることもなく、虚空を見つめたまま、ただ静かに、圧倒的な殺気を放っていた。
「おかえり」
声のトーンが、地を這うように低い。
私の脳内の扁桃体(恐怖を感じる部位)が、オペ中の大出血の時よりも激しくアラートを鳴らし始めた。「ピーー! 致命的な危機! 直ちに回避行動をとれ!」と。
「ど、どうしたの……? 体調悪い?」
私は上ずった声で尋ねた。
妻はゆっくりと首をこちらに向け、私の目を見据えて言った。
「今日、何の日か分かってる?」
……ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
今日? 今日は……えっと、5月21日。木曜日。
ゴミの日? いや、違う。結婚記念日? いや、秋だ。子供の行事? カレンダーには何も……。
待て。
私の大脳海馬(記憶の貯蔵庫)の最深部に、埃をかぶった一つの「重要ファイル」が存在することに、私は気づいてしまった。
5月21日。
妻の、誕生日。
私は、手ぶらだった。
ケーキもない。花束もない。プレゼントもない。
「完璧な1日の余韻を分かち合おう」などという、最高に自己中心的なお花畑モードで帰宅した、ただの空っぽの男がそこに立っていた。
「あ……」
声が出ない。患者家族への完璧なICをやってのけた私の言語中枢が、完全に沈黙した。
「……あなたの完璧なスケジュール帳には、患者の手術予定は入ってても、私の誕生日は入ってないんだね」
氷の剣で、心臓(いや、心筋そのもの)を正確に一突きにされた。
私はその場に膝から崩れ落ちた。

【🧠 脳神経科学メモ:なぜ人間は「最も重要なこと」をド忘れするのか】
ここで少しだけ、人間の記憶に関する興味深い脳のメカニズムについて触れておきたい。
人間の記憶の管理には、「ワーキングメモリ(作業記憶)」と呼ばれる一時的な情報処理スペースが使われる。これはパソコンのメモリ(RAM)のようなもので、容量に限界がある。
日中、極度の集中を要するタスク(例えばミリ単位の血管内手術や、複雑なIC)を連続で行うと、前頭前野のワーキングメモリは常に「フル稼働状態」になる。
脳はリソースが枯渇すると、現在進行形のタスク(目の前の患者の命)を最優先で処理するため、それ以外の情報を一時的に「アクセス困難な状態」へと追いやる。これを心理学・神経科学の領域では「認知負荷(Cognitive Load)による記憶の検索エラー」と呼ぶ。
つまり、海馬(ハードディスク)には「今日は妻の誕生日である」という絶対的なデータ(エピソード記憶)が確実に保存されているにもかかわらず、前頭前野(CPU)が手術のデータ処理でパンクしていたため、適切なタイミングでそのファイルを引き出す(検索する)ことができなかったのだ。
さらに、帰宅したことによる急激な「緊張状態(交感神経優位)からの解放(副交感神経優位)」が、脳内の検索システムをさらに一時停止させ、ドアを開けた瞬間の「お花畑モード」を生み出してしまったと考えられる。
(※注:これはあくまで脳神経科学的な事実の解説であり、妻への言い訳として口に出せば、即座に命を落とす危険な知識である。)
……という脳のメカニズムを、私はフローリングの床板の木目をじっと見つめながら、0.1秒で脳内に巡らせた。そして、もちろん一言も発することはなかった。
「……本当に、本当にごめんなさい。今すぐ、今から開いてるケーキ屋と、最高級のディナーを予約します……っ!」
私は、オペ室で見せる「心拍数60の冷静な神」ではなく、心拍数150で平謝りする「ただのポンコツな夫」として、土下座の姿勢に入った。
患者の血流は完璧に再開させたが、私の家庭内の血流(愛)は、今日、完全に梗塞(ストップ)しかけた。
明日は、妻の機嫌をとるために、私の全財産と脳のリソースをフル稼働させる1日になりそうだ。

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