29日目

玄関の鍵を開けると、甘い柔軟剤の匂いと、微かにトーストが焦げた匂いが鼻をかすめた。
靴を脱ぎながら耳を澄ますと、リビングから幼児向け番組の陽気な音が聞こえてくる。時計を見なくても、いつも通りの休日の朝だとわかる。
「……ただいま」
少し低くなった自分の声を聞いて、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
「あ、おかえりなさい。お疲れ様」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた妻が振り返った。徹夜明けの私の顔を見て、小さく息をつく。
「また随分と顔色悪いね。大変だった?」
「ん、まあね。でも、なんとか繋いできたよ」
鞄を置き、ソファにどっかりと腰を下ろす。
目を閉じると、まだ網膜の裏側に、顕微鏡越しの強烈な光と、赤く拍動する脳のひだが焼き付いている。
あの手術室の静寂。張り詰めた空気。コンマ数ミリのクリップをかける瞬間の、自分の心臓の音。
「パパ!」
不意に、膝の上にズシッとした重みが降ってきた。
目を開けると、パジャマ姿の我が子が、私の腹の上によじ登ろうと必死に手足をバタバタさせている。
「おっと……」
私は慌ててその小さな体を両腕で支え、抱き上げた。
二歳児の体温は、大人が思っている以上に高い。寝起きのぽかぽかとした熱が、服越しに私の胸へじんわりと伝わってくる。
ミルクと、石鹸の匂い。
背中に回した私の手に、トクトク、と速くて力強い心拍が触れた。
(……重くなったな)
ぼんやりと、そんな当たり前のことを思う。
ほんの数時間前、私は一ミリのミスも許されない世界で、呼吸すら制限してメスを握っていた。他人の命を預かるという、胃がねじ切れるような重圧。
ふと、夜明けの待合室で両手を握りしめてきた、あの父親の顔が浮かんだ。
『先生の手は、神様の手です。妻を返してくれて、本当にありがとうございました』
大粒の涙を流しながら、何度も何度も頭を下げていた。あの時、私を強く握り返してきた彼の手の震えと、痛いほどの温もりが、まだ右手に残っている。
私たちは決して、命を自在に操る「神様」なんかじゃない。
ただ、目の前の破綻しかけた血管を、持てる知識と技術のすべてを使って、どうにか修復しようと足掻いているだけの一介の医師だ。一歩間違えれば、取り返しのつかない結果になる。その恐怖を飼い慣らしながら、それでも手を動かし続けるしかない。
「こら、パパ疲れてるんだから。後にして」
妻がキッチンから声をかけるが、我が子は私の鼻をつまんでケタケタと笑っている。
その無防備な笑顔を見ていると、さっきまでの張り詰めていた感情が、少しずつ、確実に輪郭を失っていくのがわかった。
私が手術室で必死に繋ぎ止めているのは、単なる「血管」や「臓器」ではないのだと思う。
この、どうしようもなく騒がしくて、温かくて、ありふれた朝。
あの待合室で泣いていた家族にも、この当たり前の朝を迎えてほしくて、私たちはあの冷たい手術室で神経をすり減らしている。
彼らから受け取った「ありがとう」という言葉の重さが、徹夜明けの身体の奥深くに、静かに染み込んでいく。
「ほら、コーヒー。熱いうちに飲んで」
妻がテーブルにマグカップをコトンと置いた。
「ご飯食べる? それとも先に寝る?」
「……コーヒー飲んだら、少し寝るよ」
「うん、ゆっくり寝な」
私は子供を膝に乗せたまま、マグカップに手を伸ばした。
このささやかな日常の温もりと、待合室で託された涙の重さを知っている限り、私は何度でも、あの静寂の戦場に立ち向かえる気がした。

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