#5 中村哲の確信 〜アフガニスタンでの活動を通して〜 (村上優さん講演 2024)
はじめに
ご覧いただきありがとうございます。中村哲記念講座TAのS.Lです。今回のnoteでは2024年10月30日(水)に行われた村上優先生の講演の様子をお届けしたいと思います。
村上 優(むらかみ まさる)氏について
ペシャワール会会長/現PMS総院長。精神科医師。 九州大学医学部卒業後、1974年に国立肥前療養所で中村哲医師と出会い40年以上の親交があります。ペシャワール会発足当時から現地活動を支え、中村哲医師の最も身近な相談役でした。 当講座は4度目の登壇。中村哲医師の思索について考えを深めていけるよう、仕事や言葉を紹介しながら、ご講演いただいています。
今回は中村哲医師の今までの仕事や言葉を時系列で紹介してくださり、毎回新たな切り口で問いを投げかけてくださる村上先生に、感謝申し上げます。

講演の内容
<<村上先生が見た、中村哲の行動と変遷>>
あまり注目されないが、中村哲には「確信」があり、だからこそ足元の事業を続けられたと村上先生は仰いました。彼にとっての「確信」とは何かに目を向けながら、どのように事業が受け継がれ次に向かっていきつつあるか、お話ししていただきました。

ペシャワール会報157号の中で、村上先生は現地活動を5期にわたる段階に整理しています。第4期に当たる「PMS灌漑方式を完成させ具体的な平和の拡がりを示した2011~2019年まで」は、まわりの見方が変わっていく時期でもあり、この4期があったから中村医師の事業がそのままひきつがれたそうです。
今回は、5期にわたる段階のうち、第4期に当たる2010~2019年ごろの時期に中村哲医師が遺された言葉を見ていきます。その概要は、中村哲医師が大切にしていた以下の考え方に表れていると思う、と村上先生は仰います。
水が善人・悪人を区別しないように、
誰とでも協力し、
世界がどうなろうと、
他所に逃れようのない人々が人間らしく生きられるよう、
ここで力を尽くします。
内外で暗い争いが頻発する今でこそ、
この灯りを絶やしてはならぬと思います。
ー中村哲

まずは、アフガニスタンについて。
「我々の活動はナンガラハール(アフガニスタン東部)とペシャワール(パキスタン旧北西辺境州)の一部で活動している。山がちなのは日本と似ているが、スケール感が違う。」と話す村上先生。山に隔てられ割拠性がある(各地域の違い豊かな)中で、イスラム教がそれをひとつに取りまとめています。
ティリチミール(パキスタン ヒンドゥークシュ山脈最高峰; 7708m)の山の雪線が中村哲医師が最初に訪れた時の3500mから、4500mになった2000年頃から、中村哲医師は今日議題に上がるような環境問題への危機感を抱いたそうです。山の水の恩恵を受けて行われていた農業ができなくなっただけでなく、タリバン政権が復活する2021年まで戦争が続いたという背景もあります。アフガニスタンについては、こうした環境や声の違いがある、ということをしっかり念頭に置かないまま、無知に色々なアプローチを行うのは難しい、と村上先生は続けました。
医療活動以降の流れ
ダラエヌール、ダラエピーチ、ダラエワマの診療所、アフガニスタンとパキスタンに合わせて計6つの診療所ができた後、医者(医療チーム)を各地の診療所に供給するために1998年、 PMS基地病院を建設しました。こうして医療体制が整った直後に襲ったのが、旱魃の顕在化です。
汚い水を飲むことで腸管感染症を起こす事例も多く、元々栄養も十分ではありません。加えて、特に子供が亡くなっていくという状況を目の当たりにした中村哲医師は 2000年、井戸を掘り始めます。2006年までに飲料用の井戸の再生・掘削だけでなく灌漑用井戸を掘るものの、地下水位は下がりつづけ、掘っても掘っても水が枯れていく。また当時のアフガニスタン政府(タリバン政権の後のカルザイ政権)も地下水による灌漑を禁止する異例の布告を出す(2005年6月)という背景もあり、2003年から「緑の大地計画」がスタートしました。
この時には、造った物を誰も修理できずそのまま放置される、という状況も念頭に入れて計画を始めたそうです。蛇籠の上に柳を植えたり、筑後川の山田堰を参考にした石積みの斜め堰を取り入れたり、伝統的な技法に学びながら取水設備や用水路を造り、その工法を収めたのが、『アフガン・緑の大地計画〜伝統に学ぶ灌漑工法と甦る農業〜』です。その中に6つのコンセプトがまとめられています。

いかに、地にあった治療をするか、という発想は医療活動の時から続いている物です。その結果、荒野に見えていたものが、緑に蘇りました。「水の大切さは水がなくなって初めてわかる」、2019年には16,500haだった緑地が2022年には23,800haになりました。そして、一つの堰を造るのに3億円程度かかるお金は、募金で賄われました。

2010年にマルワリード用水路が完成し、9つの堰を造るなど活動が増えていった傍で、戦争は続きました。「中村が書き遺したように、もし、中村が白きたおやかな峰に憧れなければ、もしハンセン病に出会っていなければ、もし戦火の中で人々の命が翻弄されたるのを目撃し体験しなければ、もし大干ばつに遭遇していなければ、もしマルワリード用水路が完成し新たな用水路を手がけていなければ、、、今の私たちの事業はなかったでしょう。」と村上先生は仰います。
うまくいくかどうかは試行錯誤の連続でした。川の水がなくなる、雪どけ水がなくなる、という状況の中で 「踏みとどまりながらも」彼は何度も作った。できることが何かないか、と考えてできることが見つかったら「これだ!」と進む、山ほどの失敗をした、と語っていたことが印象に残っています。

<<中村哲の遺した言葉から読み解く思索 ー2010年から2019年にみる 中村哲の確信―「中村哲 思索と行動 下」より>>
2008年以降、日本人ワーカーを帰国させ一人残った中村医師は、PMSのメンバー(一部は医療事業を行いながら)や、レイバーたちと用水路や堰を造り完成させていく過程で、彼らを人材として育てていきます。
村上先生は第4期にあたる時期の会報のなかから、特に会報112号(2012.7)の報告を紹介しました。ここには、大洪水(日本では大震災)を経験して、自然とのかかわりの中で「命はただ単に経済発展や技術進歩だけでは守られない」という中村医師の確信が現れています。
ペシャワール会の結成が1983年9月、現地活動の開始が翌年5月、「アフガニスタン」は日本から遠い存在だった。当時、アフガン戦争(1979-89)とソ連撤退が一時的に世界を沸かせ、忘れ去られていった。その後の経過を回顧するのは、気が進まない。恐れた破局が確実に現実化してゆく過程は、人間な愚かさをたどるだけで、元気が出ないものである。
大国の利のために武力や謀略が横行し、無数の犠牲を出した。そして、犠牲のほとんどが罪にない弱者であった。この愚行が正当化され、拡大して現在に連続している。信ずべき「正義」は死んだ。
(中略)
そして、この破滅への運動は、容易に私たちを誘惑する。刹那的な繁栄で物欲が刺激され、人為の架空が独り歩きする。この「注文の多い料理店」にとどまる限り、表裏にある暗い不安も消えないだろう。
医学を含め、今日私たちに突き付けられている最大の課題は、「自然と人間の共存」である。私たちは自然を操作し、人の意に従えるよう努力してきた。それが文明の発展であり、豊かさをもたらす最善の道だと教えられてきた。
だが、アフガニスタンで見る限り、事態はそうでもない。自然とは人の命運をも決める摂理であり、人の意識が触れることができない一線を画して厳存する。
その上で、近代批判にとどまらない希望にもふれています。ペシャワール会報115号(2013.4)には、「焦ることはありません。我々には時間があります。」、116号(2013.7)では、人が「大自然の一部」であることを忘れ中に浮いた錯覚から、様々な暴力や命、生死を軽く考えることや生かされる恩恵を忘れる現状から生き方を変えていこうではないか、と呼びかけています。

マルワリード=カシコート連続堰が完工した際の会報119号(2014.4)では、出来上がった時の現場職員たちの歓喜の情景を書いています。
「確かに私たちはアフガン人に成れないし、アフガン人は日本人に成れません。だが、その壁を厚くするような昨今の風潮―自然を無視して宗教や文化、生活様式まで裁き、そのために戦争も肯定しかねない流れ―は危険です。知の傲慢が暴力ともなります。」と、争いの中で「違い」を大事なしなければならない、とのメッセージを伝えています。「違いや矛盾をあげつらって拳を上げるよりも、血の通った共通の人間を見出す努力が先だと思います。私たちの活動が、この壁を超えようとする努力と、暖かい他者への関心の結実だとすれば、これに勝る喜びはありません。」と、仲の悪い川の対岸どうしが、情報を更新したり交渉したりして両方に灌漑の恵みをもたらす堰を作ったことの喜びは、非常に大きなものがあったのだろう、と村上先生はおっしゃいます。争いを超えていく作業が大事だったのだろう、と。
131号(2017.4)では、中村先生の「完成した美しい堰と大河の流れは、悠久の自然と、一瞬の人生を告げます。この世界に生を受け、自然の恵みと先人たちの努力の上に現在があります。ここに遺す一つの種子は、そのお礼です。」という文章を、村上先生は「美しい文章だ」と評しました。
その他にも、村上先生は第4期(2010~2019年)の報告、ペシャワール会報120号, 121号, 123号, 126号, 128号、130号, 132号,140号そして絶筆となった142号に言及し、中村哲さんの遺された言葉と思想(現地活動を続ける中での思索と確信)を紹介されていました。
九州大学附属図書館 中村哲著述アーカイブにてペシャワール会報は全文公開されていますので、前述で触れた会報をぜひご覧ください☺️
質疑応答
講演の後、参加した学生や聴講者等からの質問がありました。以下では2つほど、紹介します。
質問 : 中村哲さんの近くにいた人から話を聞く貴重な機会でした。講義の中でも触れていた、中村哲さんの「自然との共生」という価値観は学生時代からあったものなのか、アフガンにいる中で築き上げた価値観なのか、どちらでしょうか?
村上先生の回答 : 基本的には前者ですね。近代合理主義への批判が大きなうねりとして起きて、競争が良いことだという価値観の上で格差社会になって、あまりにも大きな壁にぶつかりました。資本主義の次の世界を考える中でどうしたらいいか、という壁にぶち当たった。近代へ抱いてきた幻想を根底から問いかけるときに、もう一度、自然との向き合い方を考えなければならない、と私ですら思う。彼(中村哲さん)もずっとその思いがあったのだと思う。
質問:PMSで学ぶことに関して質問があります。現地で活動をして、英語ならともかくウルドゥー語やパシュトゥン語を学んでも日本では評価されず、現場で学んだ技術も役に立つわけではなく、例えば履歴書に書いても箔がつくわけではない活動だと、以前現地ワーカーの方が話されていたのが印象に残っています。村上先生は、一般的には評価や実技につながらない活動について、どう思いますか?
村上先生の回答: 中村哲さんは100人いて99人選ばない選択をするような人。それが人間の多様性だと思う。学びをしたいと思う人にはそれぞれの理由があり、例えばウルドゥー語を学んだ後、外務省で働かれた方もいる。今おっしゃったような価値観で動くような者ばかりではない。困った人に手を差し伸べるような愛惜で人を見るような価値観で働く人、共感してついていく人は結構多いと思う。なぜなら、アフガンに行けるようになったとき、行きたい、と手をあげた若者が多かった。面接をしようとも思ったが、中村哲さんは「ダメだったら帰るだろうし適性がなかったらいうから、とりあえず送ってこい。」と。日本でうまくやっていこうと思う人はあまりいなかったかもしれないけど、日本の中で生きづらさをなんとかしたい人たちがたくさんいた。みなさん、もしうまく行っていたとしてもどこかに挫折なり壁なりがあると思う。そんなときに生き方を見直していると、そんな(中村哲さんについていくような)選択をする場面があるかも知れない。自分自身のことを考えても、事業の中では精神科の医師として選ばないような選択ばかりをしてここまできました。そうすることによって、今になって考えてみれば非常に豊かな人生だったと思う。どこかの糧として、自分の選択が一つの材料になるのではないかと思う。みなさんの人生が豊かになるように、ということを伝えたい。

講演会後の、村上先生との懇親会も充実したものになったようです♪


次回予告
次回は、ペシャワール会PMS支援室長の藤田千代子先生をお呼びし、ご講演いただきます。リアルな現地での活動や実践の場の中村哲医師のお話についてお届けします。ぜひご覧ください。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
