ハリポタ雑記05「ドラコ・マルフォイの生存戦略」
ハリー・ポッターシリーズには、
数多くの悪役が存在する。
その中でも、
ドラコ・マルフォイは、
かなり特殊な立ち位置の人物だった。
彼は確かに嫌な奴だ。
嫌味を言い、
差別発言をし、
陰湿な嫌がらせにも加担する。
だが同時に、
シリーズが進むにつれ、
我々はある違和感を覚え始める。
「ドラコは本当に“悪”なのか?」
今回は、
そんなドラコ・マルフォイという人物を、
“生き延びる”
という視点から改めて考えてみたい。
ドラコを振り返る(賢者の石〜不死鳥の騎士団)
初期シリーズにおけるドラコ・マルフォイは、
非常に分かりやすい“嫌な奴”として描かれていた。
スリザリン生らしく、
ライバルであるハリーを陥れるためなら、
手段を選ばない。
陰湿な嫌がらせ。
差別的な発言。
そして『炎のゴブレット』では、
ハリーを誹謗中傷する缶バッジまで発案しばら撒いている。
しかし一方で、
当時のドラコは、
どこか“小物”として描かれていた。
自分より強い相手には怯え、
少し不利になるとすぐ逃げ出す。
特に印象的なのが、
『アズカバンの囚人』での、
ハーマイオニーとのシーンだ。
粋がってハリー達を煽った結果、
ついにハーマイオニーの怒りを買い、
顔面へ拳を叩き込まれる。
そして情けなく逃走するドラコ。
憎たらしい人物である事に変わりはないが、あのシーンには、
どこか“可愛げ”すら感じてしまう。
※ちなみにこのシーン、
本来は平手打ちの予定だったらしい。
しかし実際には、
エマ・ワトソンのアドリブによって、
まさかのグーパンチが炸裂。
結果として、
憎たらしいドラコだとしても
ギリギリのところで
「不憫(同情)」と見れたのかも知れない。
だからこそ、
当時のドラコは、
ヴォルデモートのような
“絶対的な悪”
ではなく、
「学校に一人はいる嫌な奴」
としてのリアリティが強かった。
視聴者は彼に対して、
嫌悪感と同時に、
どこか人間臭さも感じていたのかもしれない。
ドラコを振り返る(謎のプリンス〜死の秘宝)
しかし後半シリーズになると、
ドラコの空気は大きく変わり始める。
相変わらずハリーへの敵対心はある。
だが、どこか様子がおかしい。
その背景には、
マルフォイ家へ迫る恐怖があった。
父ルシウス・マルフォイの度重なる失態により、
一家はヴォルデモートから目を付けられてしまう。
そして16歳のドラコへ課されたのが、
「ダンブルドア暗殺」
という、
あまりにも重すぎる任務だった。
しかも失敗すれば、
一家皆殺し。
つまりドラコは、
学生でありながら、
“家族の命”
を背負わされていたのだ。
『謎のプリンス』でのドラコは、
もはや初期シリーズのような余裕は無い。
常に怯え、
追い詰められ、
精神的にも限界寸前だった。
そして迎える、
ダンブルドアとの対面。
杖は向ける。
だが、最後まで殺せない。
ここが重要だ。
ドラコは、悪意を持つ事はできても、
“本物の殺人者”
にはなりきれなかった。
それは小物だからか?
ひょっとしたらそれもあるかも知れないが、
それ以上に、
やはり「根は良い奴」
なんだろうなという事が伺える一幕だった。
そして『死の秘宝』。
必要の部屋で、
ドラコは再びハリー達と敵対する。
しかし火災によって、
今度はドラコ自身が追い詰められる側になる。
その時、手を差し伸べたのは、
敵対していたはずのハリーだった。
ハリーは、ドラコを許した訳ではない。
だが同時に、見捨てもしなかった。
そして物語終盤。
ドラコは前述の通り救出されたあと、
ホグワーツ側で待機していた。
ヴォルデモートに呼ばれた時、
ドラコの表情には、
明らかな迷いが伺えた。
おそらく彼は、
もう戦いたくなかったのだろう。
ハリー側へ行きたい。
そんな感情すら見えた。
しかし、
ヴォルデモート側には両親がいる。
ここで裏切れば、家族に危険が及ぶ。
そう考えたのか、
遂にドラコはヴォルデモート側へ
歩いていく。
ただ、その後の騒乱の中、
隙を伺いマルフォイ家は戦場に
背を向け、走り出す。
マルフォイ一家は生き延びる事になる。
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そして19年後。
ハリー達が中心に描かれるラストシーンで、ドラコもまた、
一家の主となっている姿が映る。
ハリーとドラコ。
同じホームにいるはずなのに、
一切交わることなく物語は終わる。
恐らく、
スタンド・バイ・ミーのように
お互いの青春として思い出を
昇華するとともに、
お互い前を向くために
「決別」という「和解」
を選んだのだと思う。
ハリーを目の敵にしていた頃の彼は、
もうそこには居なかった。
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ドラコに学ぶマルフォイ家の生存戦略
ここで改めて振り返りたいのが、
マルフォイ家そのものの立ち回りだ。
彼らの理念は、
ある意味で非常に一貫している。
それは
「生き延びる事」
これに尽きる。
ルシウス・マルフォイは、
ヴォルデモート側についたかと思えば、
魔法省側へ寄り、
またヴォルデモート側へ戻る。
立場をコロコロ変えているようにも見える。
だが逆に言えば、
彼は
「どちらが勝つか」
を常に見極めながら、
家を守ろうとしていたのではないだろうか。
そしてそれが、
ギリギリのところで
運命に許され続けてきた。
ここに、
マルフォイ家の恐ろしさがある。
彼らは、勇敢な英雄ではない。
だが同時に、
無謀な破滅主義者でもない。
彼らは徹底して
「滅びない事」
を優先している。
そして、
その思想を最も象徴していたのが、
ドラコの母、ナルシッサ・マルフォイだ。
『死の秘宝』終盤。
ヴォルデモートは、
ハリーの生死確認をナルシッサへ命じる。
横たわるハリーに近付き、
鼓動を確認。
数秒後、彼女は言う。
「ハリーは死んだ」
彼女はヴォルデモートへ嘘をつく。
大胆な賭けに出た。
もちろん、
ハリーを救いたかった訳ではない。
彼女の視線の先にあったのは、
愛息子ドラコだ。
ドラコが生きているか。
ただそれだけだった。
つまりナルシッサは、
「息子へ会うため」
ヴォルデモートすら欺いたのだ。
そしてその後、
無事にドラコと再会。
そして戦場からも逃げ延びる事ができた。
マルフォイ家とは、
最後まで
“家族が生き延びる事”
を優先し続けた一族だった。
生存戦略として、
この様な生き方も見習うべきである。
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英雄になれなかった役を演じた英雄
さて、
ドラコ・マルフォイを演じた、
トム・フェルトンについても触れておきたい。
作中のドラコは、
かなり嫌われ役寄りの立ち位置だった。
そのためか、
海外では実際にブーイングを受ける事もあったという。
各国の子どもたちがそう振る舞うのが
慣習になっていたようだ。
しかし興味深いのは、
トム・フェルトン本人が、
それを「悪役としての褒め言葉」
として受け止めていた点だ。
つまり彼は、
“嫌われた”
のではなく、
「ドラコ・マルフォイという役を、
それだけ強く成立させられた」
と捉えていたのだろう。
これはかなり俳優として格好良い。
だが、日本は毛色が少し違ったらしい。
トム・フェルトン初来日時。
本人は、
ここでも批判的な空気が待っていると思っていたらしい。
しかし実際に空港へ降り立つと、
待っていたのは、
大勢のファン達の歓迎だった。
その熱量に、彼自身かなり感動したという。
そして実際、
その後の彼の日本への好意を見ると、
この出来事はかなり大きかったのではないかと感じる。
特に2011年の東日本大震災。
発生直後から、日本のファンや被災者を支援するために独自のチャリティ活動や物資の支援を積極的に行ってくれたという。
直筆メッセージ入りチャリティTシャツの販売。
その売上はすべて
あしなが育英会の「東日本大地震・津波遺児募金」へ全額寄付された。
その他にも様々な支援活動をしてくれたという。
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作中では最後まで英雄にはなれなかった、
ドラコ・マルフォイ。
だが、そんなドラコを演じ続けた
トム・フェルトンは、
間違いなく
“英雄の一人”
だったのではないだろうか。
嫌われ役を恐れず、
世界中からのブーイングすら
「悪役としての褒め言葉」
と受け止める。
それは簡単な事ではない。
だからこそ、
ドラコ・マルフォイというキャラクターは、
今なお多くの人の記憶に残り続けているのだと思う。
トム・フェルトンをもっと知りたい方へ
そんなドラコ・マルフォイを演じた
トム・フェルトン出演作品で、
特におすすめしたいのが、
『猿の惑星:創世記(Rise of the Planet of the Apes)』
本作でトム・フェルトンは、
主人公側ではなく、
どこか嫌味で高圧的な人物を演じている。
その空気感は、
どこかドラコ・マルフォイ時代とも重なる部分があり、
「そのまま大人になったドラコ」
のような雰囲気すら感じる。
もちろん役柄自体は別人だ。
しかし、
トム・フェルトン特有の
・挑発的な表情
・鼻につく態度
・どこか小物感のある空気
は健在であり、
ハリー・ポッターファンほど、
思わずニヤリとしてしまうかもしれない。
また、映画そのものも非常に完成度が高い。単なるSF作品ではなく、
・知能
・差別
・支配
・恐怖
など、
かなり社会的なテーマも含まれている。
だからこそ、
トム・フェルトン目当てだけでなく、
一本の映画としても十分楽しめる作品だと思う。
なお、 2026年現在、
トム・フェルトンは、
舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』に、
ドラコ・マルフォイ役として
出演しているという。
シリーズ完結から長い年月が経った今もなお、
再びドラコを演じ続けているという事実からも、
彼がどれほどこの役を大切にしているのかが伝わってくる。
